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だから私はこれを恋とは呼ばない

初恋は叶わない。
叶わない恋はいつか失われるだけ。
だから私はこれを恋とは呼ばない。


始まりはたしかに恋だった

始まりが恋だったことは否定しない。私の初恋。
周囲の大人、特に両親、そして翔太の両親と保育園の先生には間違いなく私の幼い恋心は知られていただろう。
最初に好きだなと思ったのは保育園の年中さんのとき。私が一生懸命に作っていた泥だんごをわざと壊した子に怒ってくれたときだった。普段は大人しくて温厚な翔太が眉を吊り上げて、つーのだいじなおだんごだったんだぞ!と怒りながら、泥だんごが壊れたことと意地悪をされたことがショックで泣くことしかできない私の手をぎゅっと握りしめてくれたことが嬉しかったのを覚えている。
以降、私は事あるごとに幼馴染への恋を積み重ねてきた。
小学生の頃は塾の帰りが遅くなる日は帰り道一人になって寂しいと言うと、ついでだからと下手くそな言い訳をしながら自転車に乗って塾が終わる時間に迎えに来てくれたし、中学生になるとバスケットボール部に入部した翔太にマネージャーを頼まれ、高校で彼が部活を引退するまでずっと部活漬けの毎日を送ることになった。運動部なんて面倒だったけれどそれでもマネージャーを引き受けたのは、彼が他のどの子でもない私を選んでくれたのが嬉しかったから。高校生になって私が自分でお弁当を作り始めたことを知ると、おかずをねだりにわざわざ別のクラスから毎日のように訪ねてきて、代わりに私が一番好きなチョコレートやジュースをひとつ置いていくのが恒例だった。


一番近くて一番遠い

こんな感じで四六時中一緒にいるものだから、私たちは幼い頃から夫婦と呼ばれ、私は呆れた風を装って「コレとは腐れ縁なだけ。」などと言いながら、上がりそうになる口角を必死に隠していた。私は、私たちの関係が特別と思い込み、初恋が叶わないというジンクスは自分には当てはまらないものだと疑いもしなかった。私にとって翔太が特別であるように、翔太にとっても私が特別なのだと。
それが幻想だと気がついたのは割と遅く、高校3年生の夏、翔太に初めて恋人ができたときだった。

「彼女のさ、誕生日にプレゼントを渡したいんだけど何がいいと思う?」

横っ面を引っ叩かれた気がした。
恥じらいを隠すようにこちらを見ないでぶっきらぼうに言う翔太に、私は果たして上手く笑えていただろうか。恋人の存在どころか好きな人がいたことすら知らなかった。朧げな記憶の片隅で、私は思ってもいないおめでとうを言い、知りたくもない彼女の人となりを聞き、アクセサリーとかはまだちょっと重いんじゃない?などと知ったようなアドバイスをしたような気がする。
彼らは冬になる前にはお別れしていたけれど、この出来事は私の初恋に大きな影響を与えた。
友人でも、ましてや恋人でもない私たちの関係はとても曖昧で、私には彼の想い人に対して、取らないでという資格はもちろんなく、むしろ近づかないでと言われても仕方のない立場だということ、これまで存分に恩恵を享受してきた幼馴染という関係は確かに間違いなく特別で、それでも恋という側面から見た時にはとんでもなく厄介であるということに嫌というほど気付かされた。
もしも、私が幼馴染という特別席から立ち上がって突然想いを告げたら翔太はどんな顔をするだろう。たぶん驚きすぎて固まって、冗談だろと笑って、そのあとで困った顔で泣きそうになって、そしてごめんと言うだろう。それを聞いた私はどうしようか。言えてよかったとすっきり笑うのか、泣きたいのはこっちだと彼を小突くのか、冗談に決まってると無かったことにするのか、それとも。
そのときの自分のこと全く分からなかったけれど、きっと私たちはもう今のような関係ではいられなくなるのだということは分かった。そして他人にもなれないだろうことも。他人になれたらまた一から始められるけれど、そうなるには私たちは近すぎてそれでも恋には遠すぎた。


叶わない恋は失うしかないから

結局、私は現状を選んだ。何もしない。代わりに何も失わない。近くて遠い私と翔太の関係は遠ざからない代わりにこれ以上は決して近づくこともなく、20歳を超えた今も私たちは変わらないままだ。彼は今でも、私が理不尽に悩めば怒って目つきが鋭くなるし、夜道を歩く日には迎えに来る。今は徒歩か、ときどき車で。
大学に入ってもやっぱりバスケは辞められなかったらしく、サークルに入ると私のこともマネージャーとして半ば強引に仲間に引き入れてくれ、私の世界は今も翔太を中心に広がっている。体調を崩せば何も言わなくても気がついて薬や食べ物とともに看病に来てくれるし、私の興味のありそうなものを見つけては知らせてくれて、二人で出かけたりもする。
ほんの少し変わったことがあるとすれば、私たちが隣同士だった実家を出て一人暮らしを始めたことと私が翔太への気持ちを恋と呼ぶのを辞めたこと。それでもやっぱり変わらなかったのは、翔太が私の作った食事を食べに押しかけてくること。それが大学で食べるお弁当でも、家で食べる夕飯でも。
お酒が飲める歳になってから、ほろ酔いで気分が良くなると翔太はよく言う。
「紬の作るメシが1番好き。」
「一緒にいると1番楽。」
翔太は驚くくらい嘘が下手だし、いまさら私にこんな嘘をつく必要もないと知っているから、これは翔太の本心。
そう言ってくれるの本当に嬉しいよ。でもね。

そういうのはね、好きな子にしかやっちゃだめなんだよ。
期待させるから。
好きな子にしか言っちゃだめなんだよ。
勘違いさせるから。

そんなセリフをいい含むように何度聞かせたことか。そのたびに翔太は紬にしか言わないから大丈夫だとからりと笑う。私にしか言わないとしたらそれはそれで残酷だけどねというセリフは心の中だけに留め置く。翔太からそのセリフを引き出したいたくさんの女の子たちを、期待して勘違いしたいとざわつく私の心を、私はよく知っているけれど、それは私が一番翔太に知られたくないことだから。
翔太の幼馴染としての純粋な好意に心が疼くときには、勝率不明の恋などに賭けてすべてを失ってもいいのかと自分の心に問いかける。そうするといつも、私の心は握りつぶされそうに痛んだ後、鎮かになるのだ。

失うのならこれは恋じゃなくていい。
別の何かがいい。


これを愛にすることに決めた

この気持ちを恋と呼ぶのを辞めると決めたあと、急いで新しい名前を探した。早く別の名前をつけて、整理して、この恋に過去形のラベルを貼らなくてはと。
何かいい言葉はないかとスマホを叩いていると、信頼や尊敬も恋とよく似た感情だと書かれている記事を見つけた。確かに私は翔太を信頼しているし、あの底抜けの優しさも残酷なまでの鈍感さもいっそ尊敬していると言えるかもしれない。
本当は恋の代わりに一番はじめに思いついたのは愛だった。けれども、愛も同じように永遠ではない気がして、そう名付けていいか迷う。
そもそも恋と愛は何か違うのか。小学生の頃ぶりに辞書を引く。

恋とは、一緒に生活できない人や亡くなった人に強くひかれて、切なく思うこと。
愛とは、特定の人をいとしく思う気持ち。互いに相手を慕う情。恋。

やっぱり恋でも愛でもだめだったと思ったけれど、愛にはまだ続きがあった。

愛とは、個人的な感情を超越した、幸せを願う深く温かい心。

これだと思った。恋のその先。愛という言葉は20歳の私には重くて仰々しすぎるようにも、恋よりもずっと尊くて永遠のもののようにも思えた。
少し悩んで、私はこれを愛にすることに決めた。
一緒にいたいと、私だけを見てほしいと思うのが恋ならば、そう想うのはやめる。
痛む自身の胸に気付かぬふりをして、ただ翔太の幸せを願うのが愛ならばそう想う。
私は、優しくて、残酷で、ずっとそばにいた翔太を想うことをやめられはしないだろうから、この気持ちを失わなったりはしないだろう。
失わないならばこれは恋じゃない。
失いたくないから私はこれを恋とは呼ばない。

そう決めた後も、そう決めたからこそ、私と翔太は相変わらずだ。友人一同から夫婦と揶揄われながら、作ったおかずをつまみ食いされ、飲み会終わりに並んで夜道を歩き、笑い合いながら、幼馴染という特別席に座り続けている。たぶんこれからもずっとそうできるだろう。
失わないことと引き換えに、芽生えようとする感情と痛みに鈍感なふりをしながら。




翔太くんから見た紬ちゃんのお話





最後の最後に滑り込み。何個もしつこいかしらと思ったけれど、せっかく期限内に書けたから投稿しちゃう。


本当は視点を変えたお話もと思っていたけれど、時間と気力の関係でここまでに。締め切りもそうだし、今週残り3日の出勤日を乗り切るためにお昼寝をせねばなりません。
それにしても、愛の話でクリスマスと贈り物がテーマなのに、クリスマスも贈り物も入れ忘れたし、テーマを聞く限りハッピー溢れる話になってもおかしくないのに私が書くとだんだん悲しい話になって、自分でも首を傾げちゃう。
読むのは絶対ハッピーエンド派なのになぜなのでしょうか。

企画、運営、審査員の皆様におかれましては、盛況おめでとうございます。
100作を越えられたとのこと、読むだけでもだいぶ時間のかかることと存じます。お疲れさまです。ご無理のないよう頑張ってください!
そして、私のこのだらだら長いこのお話は読まずにそっとしておいていただいても大丈夫です。参加したぞ!な達成感で私はだいぶ満ち足りました。(それなら最後に書くんじゃないよのツッコミはどうかご容赦ください。自分でも書いてて思いました。)