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鎮痛剤

 泥のような眠りからアラームで目覚めた。昨夜のアルコールがまだ体に残っている。
 頭痛は二日酔いによるものか、あの場所に行くことへの忌避感からなのか。もう、ごちゃまぜになってわからない。
 薄いトースト1枚をカフェオレで流し込み、半分が優しさの錠剤を2粒飲む。
 この粒を飲んだら痛みが消えて、私の中に優しさがたまっていくのだろうか。
 「相手を変えるんじゃない、まず自分が変わらないと」
 引き寄せの法則だか宇宙の法則だか知らないけど、それならばこの錠剤を飲んで私が優しくなれたら、あの場所も優しくなるんだろうか。 
 また、独りで過ごす一日が始まる。

 集団から外れた、それだけで格好のターゲットとなった。
 標的として過ごし続ける日々に、その集団からさらに離れることを選んだのは自分だ。
 近づこうとせずに、淡々と仕事をすすめていくその姿も、気に染まないらしい。
 わずかなミスは、大きな失敗として指摘され、声高に叱責される。
 業務中の雑談に興じているとしか思えない他のメンバーは、上司の許容の内にあり甲高い嬌声が指摘されることはない。あけすけに語られる家族の話や、ここにいないメンバーへの愚痴が、狭い執務室で否応なく耳に入る。
 不快な話題にため息まじりの息を吐いて、窓の外に目をやれば上司から冷ややかな声の指摘が入る。「土屋さん? 外に何かあるの?」
 心の底まで凍っていきそうな声は、様々に言葉を変えて日常だ。いちいち反論したりはしないが、心は麻痺していった。

 ひとりの部屋に帰っても、緊張はとけない。明日は休みだというのに。
 帰宅したことを見透かしたかのように、母から着信があった。
 今度こそ、ため息をついて受話ボタンを押す。祖母の介護をひとりでする苦労の大変さを訴え、お金を無心する。延々と続く繰り言に、こちらを気遣う言葉があったことはない。
 止むことのない頭痛。麻痺した心。半分優しい錠剤と麻痺をほぐすためのアルコール。
 痛みが消えることもなく、優しくもなれない錠剤を、コンビニのサンドイッチを食べてから、こくん、と水で飲み干して、ウイスキーのボトルに手を伸ばす。ストレートで1杯、ロックで3杯ほど飲んだところで、鎮痛剤の箱が目にはいった。
 酔って呆けた頭で、あの粒をいくつ飲めばこの痛みが消えるのだろう、そう思った。
 『ねぇ、まきこ、鎮痛剤っていくつのんだら、いたみがきえる?』
 遠く離れた友に呟いた。

 くり返し鳴る着信音にぼんやりと目を開けた。
 「仁海!? 仁海!! 聞こえる!? 返事して!!」
 「――ん、まきこ?」
 「ひとみ…!」
 電話の向こうで、抑えながらも叫ぶような声がする。いや、この声はむしろ、ドアの外。
 知らないうちに吐いていた吐瀉物にティッシュペーパーをかぶせ、ふらふらと玄関を開けた。
 ドアの外にいた真紀子は、大切なものを見つけたかのように、ふわり、と私を抱きしめた。

 大切だと思えないところに時間を使うのは無駄だと、やっと、気がついた。
 『仕事、辞めたよ』と伝えた友からは、おつかれさま、と優しいスタンプが送られてきた。   
 私が、わたしに優しく、わたしを大切にすることを覚えたら、世界は柔らかく私を包んでまわりはじめた。
 あの日々にためた、優しさとともに。


引用元:
作品タイトルはSpotify他で配信している廣野ノブユキさんのアルバム
「N's Map ~ Looking For~」所収の楽曲からお借りしました。

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