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"怒り"と穏やかな絵

子供の頃から"怒り"を抑えることが苦手だった。

虹色の景色になる日

「ガチャン!」
自分の拳が家のガラス窓を突き抜け、昔ながらの薄い刷りガラスは砕けて散った。
友達がぽかんとした顔で私を見て、私も自分の拳を呆然と見下ろした。
その日友達が私を仲間外れにした。
いや、正確に言うと仲間はずれをするフリをする遊びをしていただけで、私たちの友情の中では大したことでは無かった。
しかし私は怒りをコントロールすることが出来ず、手近にある物にあたってしまったのだ。

いま思えば手先が不器用で‥勉強もわからず、授業中もさぼっているわけではないのに理解が追いつかないことに私の中の怒りが無意識に増幅していたのかもしれない。

しばらく時間が経って"怒り"が鎮静化してくると今度は悲しみが私の頭を支配する。
この時の悲しみには種類があり、悲しみを取り除くこともいくつかの方法があった。

私の中での"悲しい"という気持ちは不器用さによって大体が引き起こされた。

不器用なので物事を始める前から「どうせできないんだろうなぁ」という悲しい気持ちが押し寄せ

物事を始めた後に「やっぱり出来なかった」という悲しい気持ちがやってくる。

そんな不器用さが誰かに気づかれ「なんでできないの?」と心底不思議そうにきかれた時に最大の悲しみが訪れるのである。

そして"悲しみ"はまた"怒り"へと還るのだ

そんな時にわたしはひとりで自分を立て直した。

ひとつめに物語の本を読み、現実ではないどこかの住人になりきってみたり
ふたつめはただ日々が通り過ぎるのを待つ
みっつめは絵を描くことだったが、20歳頃を過ぎるまでは絵を描くことも私の"怒り"の原因だった。
私にはあまり絵の才能がなかった。
しかし絵を描くことが好きだったので続けていた。そんな時間が通り過ぎる中でなかなか成長しない自分自身にひどく苛立っていた。

しかし20歳を超え、ある程度の技術を得ると
"絵を描くということ"は怒りや悲しみの感情を抑える事に役立つようになった。
不思議なことに"怒り"という感情が強いほど集中して絵に向かいあうことができ、そして出来上がる作品の世界観は何故だかとても穏やかで、きちんと整理されているのだ。

坐禅を経験したことはないが、もしかしたら似ているのかもしれない。

世の中の人々は物を創るときどんな気持ちなのだろう。
怒りや恐怖に満ちている絵を描いている時は?
優しく穏やかな音楽を創っている時は?

私の絵はよく癒されると言ってもらえるが、そんな絵が怒りの副産物だなんてまさか思わないんじゃないか‥と思う今日この頃である。

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