『極限の思想 サルトル』-意識しての対自は「一箇の存在減圧」…それは…相殺-
今日もサルトルである。
本書は、自分とは違うとか、それはどうかと思う…などの差異がない。容認できる範囲というものも自分には存在するが、その幅の内側という意味ではなく、完全に同じなのである。哲学的表現は詳細過ぎるが、その詳細でさえ私の正しさや感覚するものと照合出来る。どストライクなのだ。
本を読むとは、重要な文章を逃さず吟味する、自分との対峙(対自)である。自他の正しさを筆頭に差異を見つけて対自していく。
本書に於いての対自は、自分の想いの発生からそれを意識し、その概念を抽出し、自分がそれに対応していく“さま”や、各段階における概念など、想いが無化するまでの過程と照合している。
本の暗記に意味はない。丸暗記のような記憶を残すことになんの意味があるのだろうか。その情報をレコーダーのように暗唱、又は表記することの意味は、情報のひけらかしであり、論議においても情報の差異を論じたところで趣味の戯れに過ぎない。美しさ、素晴らしさを崇める、崇められる行為は本質的には自他の“ため”にならない。
また他人の経験談、成功や失敗は絶対的なものであり、自分のそれ、即ち自分の経験にはならない。よって、遠く離れた人間の経験談議は何の意味があるのか私にはわからない。
面白さが有情(を通した感動など)を誘うものであるかぎり私には意味をなさない。
昨日の続きから…
「認識とは自己の超越」
「私の偶然性の必然がとる偶然的な形態から帰結する超越」
対自はもうひとつ、より本質的な意味で超越となる「時間という超越」未来への超越であることで自由であることになる。
認識が全てといつも感じているが、自分の意思や意向の赴くところに意識を配分することが出来る。仏教でいうところの「法界」のことをここで言っている。
時間も未来も過去でさえも書き換える「超越」は、認識するものが全てであり、自分の存在は配分した存在の観点を捉えて、その対象に“なる”ことが出来る。
身体のする知覚によって、自分の存在(精神であり心)は、極限の意識となることも可能で、絶対的な「私」の観点から認識している。
精神(身体)の意向が身体を動かす。
オブジェ(物体)が目の前になくともそれを思うことが出来る。しかし思いは身体を抜け出した外部に放出され、ないところにあるような存在となることが出来るのだ。
道具ー事物
自分の身体とは、過去-現在-未来どこにでもいるものであり、その三様のどこに居るのかと限定すると、どこにも自分が居なくなる。と考えていた。
「私の身体」は、あるようでないようで、でも確実にある存在である。
ハイデガーとサルトル
という「章」はないが、
『存在と時間』と『存在と無』の文章が時折こうして展開される。いわばハイデガーとサルトルの比較がされていると言っていい。
そして私も読んでいてそう感じた、『存在と時間』に出てくる、ハイデガーの名文がここに出ていた。
二人の「問題」は、まぁ大体同じことを言っている。身体という存在が問題なのである。
巻末にサルトルが「生まれて来るのも不条理だが、また死にゆくのも不条理だ」と言っていた。
まさにその通りで、更に付け加させてもらうと、生きていくのも不条理と思えるのだった。
問題は解決してもしても、生きている以上尽きることはない。全ての不条理を経験しなければならないなんて不条理、だ。
哲学や神学でも度々目にする、「意識されたものは自分となる」自分の所持品となり自分にプラスされたような表現を見かける。所謂“知識”のことだが、サルトルは意識としての対自は「減圧」と言っている。
所持するのものが何故減圧となるか紐解くと、知識は記憶しておくために頭に刻み込んで、そこに置いておく、又は詰め込むモノのイメージだが、減圧の場合は、対自する対象を意識して内外を繋げる。何故そうなるのかと問いて解いていくと結果、問題だったものが相殺される。同じ問題をもう解かずに済むイメージ。身体にあった問題がひとつ解決され、頭が軽くなれば身体も軽くなる。減圧されるのだ。
おお!
やはりサルトルは私と同じ問題対処の仕方をしていたのだ。『精神の考古学』のゾクチェンの教えでも出てきたが、真如に辿り着く過程やその後も発生する問題に対して、常に相殺して身体を身軽にしておく。それは真に自由になるためにはとても大切である。
自己から発生する意識(差異)は、自己の問題である。発生元は「自己の無」の意識。
「無」は「有」を受け付けないのです。
この「有」を処理したまえ…という身体からの命令です。
いつも度々言っている。
いや、毎日そればかり言っている、私。
私はサルトルを味方につけた。
続く。。
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