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女性は役に立ち過ぎてはいけない

 子供の頃に何かで見かけた『ヴィーナスの誕生』が私にとっての女性像として焼き付いた。大人の女性とはこういうものなのか…と髪や身体の曲線の美しさ、そしてヴィーナスに漂う、ゆるやかな空気感と浮世離れした面持ちに、まだ胸もお尻も真っ平な私は魅了された。当時ピアノを習っていたこともあったのか、この絵の中にメトロノームを置いたらどんな優雅なテンポを刻むのだろう…とも思った。

 しかし、子供の私は大きな勘違いをしていた。ヴィーナスは人間ではなく、神話に登場する女神だ。浮世離れしているのもごもっとも。今となっては、せめて人魚姫のように下半身が魚だったらよかったのに…と思う。

 大人になって絵画の解説を読むと、ヴィーナスの長い首など、身体のつくりが解剖学的には有り得ないことを知った。それに、美しい曲線を描くポーズも実際には立つことの出来ない姿勢らしい。こうして、憧れの女性像は幻想だったことを知ったが、その頃の私にはもうどうでもいいことだった。それより、ショッピングや旅行や友達と遊ぶことに忙しく、子供時代の記憶はすっかり消えていた。その証しに、20代の頃にイタリアのウフィツィ美術館で実物のヴィーナスの誕生を見たはずなのに何の記憶も残っていない。

 そんなヴィーナスが私の心の中に戻ってくるのはそれから20年以上経ってからとなる。同世代の多くの女性と同じように家事、育児、仕事に忙しい毎日を過ごし、義父の朝食のために一切れの鮭を焼き、静々と母屋に運ぶという修行僧のような日課も当り前に思えるほど長男の嫁が板についてきた頃、突然「ヴィーナスのような大人になるはずじゃなかった?」との問いかけが心の中に湧き上がってきた。

 今まで何の疑いもなく家族のことが最優先!と思って過ごしてきた。父が大病をして社会から早々とドロップアウトしたので約20年ほど実家の家計を支えた。父が一家の稼ぎ頭であったことの名残りのような住宅ローンのボーナス払も私のボーナスから支払った。コレが無かったら、今ごろ世間で言われている老後資金も貯まっていたのになぁ…と遠い目になる(笑)

 そして、60歳過ぎに癌で早々と他界した義母の代わりに母屋に残された家族の世話をするようになってから十数年になる。当時娘は3歳になったばかりのまだまだ手のかかる時期で『お義母さん!せめてお祖母さんだけでも一緒に連れて行って!』と思った。(コラッ!)

 20代の私には想像も出来なかった30代、40代の暮らしとなった。

 周りを見ても働き盛りの女性は本当に役に立つ。隙間産業のような機動力もある。そして、自分のことはいつも後回しで、黙っていたら当たり前のように順番も分けまえも回ってこない。それでも、日々役に立ち続ける。そんな様子に呆れ果てた私の幼心が、ヴィーナスを呼び起こしたのかもしれない。

 自分に頼ってばかりで、自身がお茶の出がらしのようになっているのは大人の女性として如何なものか?役に立つばかりが女じゃない。ケア用員でも、安価な労働力でもない。50歳を目前にしてそう思い直した。

 それに、ヴィーナスに時折「女性は役に立ち過ぎてはいけない。」とそそのかされることがある。そんな時は迷わず、家事や雑事を放り投げ、一人でふらりと街に出たり、布団に包まり気兼ねなく怠惰に過ごしている。


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