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生きる喜び

【つぶやき・独り言】

久しぶりに、心が静かになった気がする😊

今日は雨も上がって日差しが心地よい日曜日。
穏やかすぎてコワイ(笑)

今日は どこにも出かける予定を作らず、朝もユックリとした。

元々、難しい事を考えられるノーミソは持ち合わせていなく、
想う事も言葉も 成長がないけれど、穏やかな この時があれば
良いと思えるようになったのは、歳のせいかな〜?

きっとそうだ🤣

生まれて1歳に満たない末っ子を残して 前夫が他界した時から、
身内は元より、近隣地域の人々、友人、職場、行き交う世間のすべてに支えられて来ての  今。

あらためて多くの恩を思い出す。

当時の私を知る人は 今でも「よく頑張ったね」とお言葉を下さるが、ずっと、私は一人じゃなかった。

確かに、葬儀から初盆までの2ヶ月半くらい、悲しむ余裕も 泣く暇も無かった。それが幸いだったかも知れない。
その間、子供達にも いつも誰かが寄り添ってくれていた。

親兄弟も当時はずっと若かった(当たり前だ)事、何よりも、私よりも3歳も若い兄嫁が、専業主婦で  自分の子供が少し手が離れた時期であった事で、早出 遅出 夜勤は免除されていたが休日出勤 学習会 研究発表会 等々、私がフルタイムで仕事しやすいようにと 完全にフォローに回ってくれた事が、申し訳なくも とても嬉しかった。

そして、子供がいたから生きられたと言うのが本音。
一番よく頑張ったのは子供達だと思う。

子育てと いうけれど、「子育ては親育て」とも言う。
子供を育てながら、親も親として育つのだとか。

私は親として育って来たのだろうか、今でも疑問だ。

一番末の子が 4歳くらいの時、一時期喘息発作が起きて入院することが多かった。
酸素マスクの下の苦しい息の中で
「僕が大人になったら、お兄ちゃんと一緒にママを守るから、だからママ、頑張ってね」

すごい衝撃だった。
自分は こんなに幼い子に心を砕かせるような弱さを どこかで出していたのか。
申し訳なくて いじらしくて 小さな手を握って 泣いた。

その子は小学生になって、兄たちと同じようにサッカーをするようになって、徐々に体力が戻ると同時に、喘息は すっかり消えた。
抜群のサッカーセンスは 父親譲りだろう。

あの時の  子の言葉を 声を、今でも忘れない。

その子供たちも成長してくれて、みんなで集まる時は もう、一番ドジなママ(私)の面白失敗談に花が咲く。

子供達にとっては、それが一番楽しい思い出のようだ。

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当時、子育ての間だけ 何かと不便だろうと 私の親兄弟の勧めで 実家の近くへ引っ越すことにした時も、受験生の夏だった長男は、「勉強はどこででもできるし、友達はまた作ればいい。田舎へ行くのも 俺は構わない」と 大切な時期なのに不満も不安も言わなかった。

初盆を終えて すぐ、亡き夫が生前 指導していた少年サッカーの関係者全員と、地域でお世話になった方々への引っ越し挨拶に周り、転校の手続きをして 夏休み中に アタフタと移動。

引越し先に荷物を入れて、一時実家に戻れと言う両親の言葉通りに私は子供達と自分の実家に一週間程 滞在した。
その日から  私は 疲れと共に全ての気が抜けて 丸二日間 眠り続けたらしい。

その間も、母の手伝いをして 長男が下の子の面倒を見てくれていたと 母から聞かされた。

そして 引っ越し先の片付けをしようと、これから自宅になる家に行ってみたら、兄嫁と私の妹と二人で全ての荷ほどきを完了していて、食器棚には食器が、子供部屋には勉強道具が配置されていた。

ここから 私たち母子の新しい日常が始まった。

子供達が寂しい思いをしないように、夜には家族みんなでできる大きなジグソーパズルをテーブルの上に並べて、各自持ち場所を埋めていく。

長男の提案で  当時流行っていたスーパーマリオの あらゆるゲームの持ちキャラを決め  家族中交代でやっていたり。
オシメを巻いたままの末っ子も、繋いでないコントローラーを持たされていた。
他にも、絵本の読み聞かせの上手なのは誰か、とか、
色々賑わしく😄

今思えば、長男はいつ勉強をしていたのだろう。
早くからIT関連の仕事がしたいとの希望を持っていて、今もその仕事に携わっている。

ーーーーー
亡き夫は、古い言葉で言うと跡取りであり、私は義両親との付き合いも苦がなかった事と、孫は我が家にしかいなかった事、何よりも末の子がパパの顔も声も知らないから、婚家から籍を抜かないまま 夫の分だけお仏壇をコンパクトにして、一緒に引っ越して来る事を、義父に許された。

と言うよりも、言い出したら効かない嫁(私)の性格を、義父は一番よく知っていた。

その義父が許したのだから、親戚中の誰もが反対しなかった。

嫁のくせに マジ生意気だぞ←ジャイアン風
なんて 誰も言わなかった(笑)

だからと言うわけではないが、私を娘のように大事にしてくれていた義母の持病の事も気になるし  休みごとに孫の顔を見せに、義弟夫婦と暮らす義両親の元を訪ねた。

子供達も大喜びで、いつもと違う周囲の雰囲気を楽しんでいる。
義弟のところには子供がいないので、遊園地や公園へ「義姉さんは 休んでて」と子供達を連れ出して、私にとっても良い休暇にしてくれた。

婚家の菩提寺は山陰だったから、年に2回 子供達を連れてお墓参りをする。
学校の長い休暇にも なかなか旅に連れて行ってあげられないから、まだベビーバスケットが必要だった末の子のグズリやオシメ交換を考え、いつも私の車🚗に子供達を乗せ、お墓参りがユックリな旅気分となる。

最初は私の弟が心配して 二台で一緒に行った。
時折は、義弟夫婦も一緒に走ってくれて、用意してくれたホテルで2泊して現地で子供達と遊びまわった事もあったり。

私は 車を運転するのは好きだし、長い道中も全然しんどくはなかった。
帰りにお土産を持って 大阪の義両親の元へ立ち寄り、義弟夫婦にお礼を言い、又 一路 我が家を 目指す。

長男が運転免許を取って、最初に 初心者マークをつけてお墓参りに行った時、5年ぶりのサイドシートで 楽ちん気分を味わった😄
♪ 嬉しかったな〜

成長してくれて有難う♬

そんな気分を満喫しながら……

今は、義両親も他界、我が家の長男が本家のすべてを守ってくれるようになったので、義弟夫婦も 自分達がしなければならない用事が減って楽になったと喜び、予てよりの夫婦の希望だった海外を旅している。

つい先日、我が家の引越しの荷ほどきをしていない箱から、当時 子供達と完成させて保存していた大きなジグソーパズルの額が出てきた。
天野喜孝さんの絵だ。懐かしい思い出が蘇る。

私は他の方々に比べて、親として社会人として、考え方も行いも 決して立派でも何でもない。子供達をしっかりと見ていたかどうか。
子供にとって親が必要な時、そばにいてあげられたかどうかも わからない。

けれども、こんな私を支え続けてくれた周り人々のご縁と、
この子供達を残してくれた亡き前夫と、
私の元に生まれて それぞれに育ってくれた子供達に、

そして 今の日々を迎えられている事に

感謝 します✧.。.:*🙏


思い出すままに綴ったので、内容がバラバラで理解し難いかもしれません。 読んでくださった方、ごめんなさい🙇‍♀️

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湖面を滑りゆく風
暮れ空に
想ひでの
縁(よすが)となりぬ
夕な色の訪い(おとない)

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拙い文章です。サポート頂くことは考えておりませんが お心遣い下さった方へ、心から感謝申し上げます どうかこれからも暖かく見守っていただけますように。