幼少期

今日はなんだか文章が書きたい日なので、自分の幼少期でも語ろうと思う。

......

今から22年ほど前、私は東京都八王子市に生まれた。
父と母、そして姉の4人家族だ。
父の名前の一部を引き継ぎ、穂乃香という名前を授けられたのがこの私だ。

私はとにかく無口な子供だった。
母親やその周りの親戚などに何を尋ねられても首を傾げ、ハッキリとした返事をしないので、度々家族を困らせていた。
何が好きかも分からず他人の選択に全てを委ねて生きていた。
ただ、鉛筆を持つことは好きだったようで、ある日、母親に色鉛筆を買い与えてもらい、そこから暇さえあれば絵を描いていたような覚えがある。
また、幼稚園では室内で遊ぶことが好きだった。レンガほどのサイズのコルクのブロックを使い、間取りを形成し、その中で家族ごっこをするといった、いかにもハイスペックな遊びを私は試みていた。
弱冠6歳にして、自身が間取りの中で生活しているということを認識できていたのだ。

幼少期の記憶としては目玉焼きの黄身の部分だけをほじくり貪っていたことと、その他は夢の記憶ぐらいしか残っていない。
宇宙船に乗せられる夢、家族のドッペルゲンガーを見た夢、大量のグリンピースが乗っているミートソーススパゲッティを食べさせられる夢。
この辺の夢の記憶だけは未だに光景を思い出せるほど、鮮明に記憶に残っている。
幼稚園で仲の良かった男の子から、告白されてもいないのに、"○○くんとは付き合えない。ごめんなさい"とお断りの言葉を放った事は、絶対に夢であったと思いたいのだが、そんなことがあったという記憶だけは確かなのに夢だったのか否かの真偽は今も分からずにいる。

年長になった秋頃、父親の仕事の都合で岡山への引越しが決まり、数年間過ごしてきた八王子を離れることとなった。

新たに入園する予定の幼稚園を訪問した際、その園ではその日、うんどう会を行っていた。

園児全員が息を揃えて"ありがとうございますぅ〜"と元気よく言っていたのだが、その"ございます"のイントネーションが完璧に"おだいぶつ"のイントネーションで、なんとも異様な感謝の言葉に、家族全員が苦笑した。

そんな岡山にも、すぐに慣れてしまい、気づけば私は小学生に。

小学生時代の記憶こそ曖昧で、特にといった面白いエピソードは何もない。

ただ、小2、小5と担任であった年配の女性教師に私の生き方は大きく左右される事となったと今になって思う。

何があっても自分が悪いとは認めず、これは体罰じゃないと言い張りながら、生徒に体罰をくらえる、コンプライアンスギリギリどころか、余裕で逸脱してしまっている教員に、私は2年間も従順していたのだ。

歪むもの歪んでしまったが、メンタル面では多いに鍛え上げられた。
あの2年間がなければ、今頃もっと世の中に対して許せないものが沢山あったであろう。
しかし、あれが"最悪"と思うと、それ以外はなんてことないと思える。
そんなブラック企業のような組織を既に小学生時代に私は経験してしまっていたのだ。

そのような環境で育ち、成績もまあまあ良く、問題も起こさなかった優良児であった私だが、この後、中学生時代では2次元オタクと化してしまう。

中学入学を果たした私に何が起こったのか、それについてはまた今度。

#幼少期 #思い出 #エッセイ #自分史

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