義母との出会いと別れ☆彡
おはようございます。
私が『虹色通り🌈』のお仲間に入ってから、三度目の当番日です\(^o^)/
前回投稿してからはホッとしてしまって(笑)、ふと気が付くとあっという間に自分の担当の日となってしまいました💦
その前に『虹色通り🌈』について、少しだけ紹介させてください。
お仲間のららみぃたんが、わかりやすくまとめてくださっているものをどうぞお読みください。
金曜日にそっと開店するお店、それが虹色通り。
今日も来ていただきありがとうございます。
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第二回目の記事では、愛情をうまく表現できない不器用な義父の最期について投稿しました。
その記事を書きながら、もし、そんな義父のそばに居る義母や、子どもたち・家族が違う対応をしていたら、義父も変わったのかもしれない、とも思ったのです。
<前回の記事の有料部分を少しだけ公開します>
もちろん、これは理想の話かもしれません。
現実は、きれいごとではない。。
特に昭和初期に生まれ、戦後民主主義が法制化されても、今までの生き方を突然変えることができなかった世代、親の求めのままに結婚した世代の人達には、愛、とか家族で支えあい愛し合う、とかは理解できないかもしれない、通用しないのかもしれない・・。
また、民主主義の時代に生きていたとしても、「頑なな男尊女卑の思想を持つ人」や「親・夫の言うことは絶対という考え方をまだまだ変えられない人も」いる。。
でも、夫婦関係の理想を目指すことも必要だと私は思っているのです。
少なくとも今を生きる私たちは。。
過去の体験や経験は、愛情や出会いによって変われる、私はそう信じています。そうでなければ、辛い過去がある人が幸せになれないということになります。
今回の記事では、義父と義母の関係性、義母の生き方、について、振り返りながら書いてみようと思います。
義父と義母の関係性
義父については、前回の「虹色通り」の記事(☝に貼り付けてあります)で書いています。
確かに、義父は昔の人で特に若い頃は「地震・雷・火事・親父」で表されるような、怖い人だったのかもしれません。
ただ、嫁の私から見ると、義父は、短気で声も大きく怖い部分もありましたが、働き者で、地域活動も活発に行い、多くの役目を背負い、地域では信頼されている人でした。葬儀参列者の数も半端なく多かったです。
ただ家庭の中では、不愛想で不器用な人、愛情表現が下手な人だと私は受け止めていました。家庭では、気をつかうことをせず、ただただリラックスして過ごしたい本来の義父の姿であったのかもしれません。
でも、長年共に暮らしてきた義母にとっては、私の受け止めのようには義父をみることができず、年を重ねるごとに、だんだん義父に対して不満や文句を私にも言うようになりました。それが私には残念でした。
だから良い関係が築けなかったのは、義父だけのせいでもなく、もちろんそう言いたくなってしまう義母だけのせいではないと思っています。
もしお互いが(お互いが、です)良い関係性を目指す生き方が出来ていたら、もしかしたら、家族関係も変わっていたのでは?とも思うのです。
ただ、今の時代とは違い、恋愛をしてお互いに愛し合って結婚したわけではないだろう義父母でしたから、愛情で家庭を作ることができなかった、そういう考え方の情報もなく、新しい考え方持つことができなかったのかもしれません。
特に、義母の父親が、義父にとっての棟梁で、結婚前は義母は棟梁の娘だったため、関係性が複雑だったと想像できます。
また、根本的な考え方や思いが違っていたようにも感じています。
義母の生き方と人間性
実は、私は義母が苦手でした。
(あっ、言ってしまいました💦)
いや、本音を言えば、義父以上に義母が苦手だったのです。。。
(またまた、言ってしまいました💦)
そう思うに至るのには、いくつかの体験があります。
今日は、少し「ブラック恵子」になってしまうかもしれません💦
今まで家族についてほとんど否定的な発言はしていないのですが、今回は有料記事なので、素直に書いてみたいと思います。
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