世を切り裂いて歩く
樋口一葉(明治28ー29年)『たけくらべ』(文学館雑誌社)
『たけくらべ』は、苦界(遊郭)の中で生きる美登利と少年の淡い時間、いつまでも子供ではいられない残酷さ、それを、一葉が”女性として”描いた一作である。”女性として”、というより、”女性として生きる自分をそのままに”、と言った方が適切かもしれない。
一葉は、連帯意識のような眼差しで苦界に生きる女性たちを描いた。美登利に対する姿勢は、同情や憐憫より、もっと真っ白に同化したものだと感じる。若くして一家の大黒柱を務めなくてはならない、なんとしても文壇に爪跡を残さなければならない、逼迫した状況の中で、一葉は、身動きの取れない格子の中にいる遊女たちに仲間意識を感じたのではと思う。
美登利が急に塞いでしまったことに対して、初潮説と初店(水揚げ)説がある。私は最初、水揚げかと思った。「すべて昨日の美登利の身に覚えなかりし思ひをまうけて物の恥かしさ言ふばかりなく、……」という記述から、昨日と今日で決定的に美登利を変えてしまったある一つの出来事、というような印象を抱いて、初潮であった場合はそうした一回の強烈な出来事というより、まだその最中だろう、それとは少しイメージが異なるなと感じたのだ。しかしよくよく考えると、初潮説として読める個所もある……簡単に結論付けることはできない点だ。
哀しきかな、色あせない「羞恥」
ただ、着飾った自分や島田髷に差される往来の視線を、耐え難く、恥ずかしく思う美登利の様子からは、己が「商品」となったと感じている恥辱が窺える。作中におけるこの居心地の悪さ、逃げ出したいような感情は、「吉原」という舞台の上で「遊女」という仕事を強く意識したうえでのことだろうとは思うが、初潮にせよ水揚げにせよ、己が「女」になったと感じるその耐え難い恥かしさ、強烈な戸惑いは、体を売らない女性でも、いささか身に覚えのある感情なのではないか。
初潮に関していえば、自分のコントロール下にあると思っていた身体が、全くハンドルの利かないものになる、将来見るかもわからない現実味のない子供のために、自分の身体が勝手に労力を割いている、そういう狼狽は少女につき纏うものであると思う。
また水揚げの文脈でいえば、少女にはある日そういう視線に気づく時が来る。自分の意思とは関係なく、身体が他人にとってある種の「価値」があるものなのだと、気づく日があるのだ。売りに出した覚えはないのに、なぜか商品棚の上にいるような気分になる。それはふと感じた男の子からの視線かもしれないし、街中の広告かもしれないし、反吐が出そうな痴漢のせいかもしれない。
そうして、これらどちらも、自分の精神と身体が分裂したような、身体が「モノ化」されたような心細さと恐怖を感じると思うのだ。この乖離を意識してしまうと、もうそれ以前、「何時までも何時までも人形と紙雛さまとをあひ手にして飯事ばかりして」いられる時分には戻れない。『たけくらべ』のこの場面は、そのような喪失感、世界が変わってしまったような絶望と心許なさの表現として、共感も抱かせるものだと思う(少なくとも私は共感する)。そうした意味で、この作は、「それまで描かれる側であった女性自身が描く」という意識が一つの達成を遂げているとも、見ることができるのではないだろうか。
こうした読みはもしかすると、ごく個人的なものなのかもしれない。私と同年代の女性はどう感じるのだろう。また男性として生きてきた人はこのような感情をどう思うのか、どのような感想になるのか、他の人の所感が気になってくる。
この世を歩くには、まとわりつく視線を切り裂いていく胆力がいる。20代後半にもなって、私は戸惑う少女たちの側に立っていたいと猶更強く思うようになった。彼女たちを守りたい。
「子供の時分」は過ぎ去ってしまうものである。けれども、「大人の時分」も存外悪くないものだと、そう思える世の中を作るために動ければと思う。
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