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『一陣』第五章

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第五章

 上尾宿から中山道をずっと、後ろをついてくる女がいる。いや、江戸を目指すならこの街道しかないのだから、「ついてくる」という言い方は正しくない。ただ一定の歩幅があってしまっているのか、つかず離れずずっと背後にいるのだ。まだ若い尼僧はいささか気まずい心持になっていた。常ならば向こうから軽い挨拶をしてきたり、旅は道連れ、なにがなし話に花が咲くようになり説法の皮をかぶった旅話をしてやったりするものだが、当の女はひりついた空気を纏い、ただ江戸への道しか見えていないようである。……尼僧はしびれを切らした。
「もし、旅のお方、精が出ますね。旅は道連れ、良ければなんの、世間話でも。」
振り返り、つとめて穏やかに話した。正直、尼僧は少し怯えていたのである。彼女の纏う鋭い空気に。賤しい出自には見えない。むしろ裕福な出に見える。旅装束にしてしまっているが、あの絣はかなり上等なものではないだろうか。まだ新しさの残る脚絆が、彼女の旅路が未だ短いものであることを物語っている。なにより肌が白い。これは本来なら、美しい絽にでも袖を通し、座敷で菓子でも嗜む身ではなかろうか。つんとした鼻に薄い唇、切れ長の目は涼やかで、肌に刺さる日差しとは対照的である。
「尼さんが世間話とは。しかしその若さでだぼが無いのは気になるね。」
少し皮肉っぽく笑われたが、さっぱりとした話し方はむしろ小気味よいものであった。馴れ馴れしいというより、胸襟を開いた好ましさに感じられる。
「なんの、夫に早く先立たれただけですよ。そちらも随分お若い。ひとりで江戸へ?」
「まあ、そうだ。」
これについてはあまり語りたくないと見える、しかしいかにも訳ありそうな濁し方はかえって興味をそそられる。
「ひとりで江戸への旅路を歩く胆力があるのなら、きっといい尼僧になれますよ。」
笑いながら恐る恐る吐き出した口上である。少し呼び水になっただろうか、踏み込みすぎただろうか。尼僧は探り探り話す。この尼僧、全く世俗への興味から離れられていないのである。というよりは、仏門に入ってからは猶のこと、人間というものについて考えてしまうのだ。人の欲とは何なのだろうか、人はなぜ愚かなのだろうかと、山間を一人行脚していると折々で考えてしまうのである。
「世を捨てるには、私には欲がありすぎる。」
遠い目をして答えた女は、その言葉とは裏腹に、むしろ諦観を染み付かせ老熟した尼僧に見えた。
「江戸にはなぜ。」
「別に熊谷宿でも鴻巣宿でも良かったんだ……けれど、どうせなら一番人が多いところに行こうと思って。」
真っ直ぐと迷いのない足取りに見えたが、思いのほか気ままな旅らしい。これはまた、殊に興味深い、尼僧はもう聞き出したくてたまらなくなった。
「人探しでも?」
「……そうだね、浪人に会ってみたいね。武士もいいけど……いや、むしろ賊やなんかのほうが……。」
女は考え込んでしまった。
「賊を恐れる旅人はごまんといるでしょうが、賊を探す旅人とはまた奇特な。」
「強くなりたいのだ。」
いきなり真正面からの返答が来たので、尼僧は驚いた。
「それはまた、なぜ、女でしょう。戦時でもあるまいに。」
「女はなぜ強くてはいけないと思う。女の強さとは男とは違うのだろうか。男に組み敷かれたら敵わないのが女だ。男から何も守れないのが女だ。女は業が深いからこう生まれついたのかい。私は業が深いのかね。」
堰を切って、目線は道の先、普段はたおやかであろう横顔をきりりと引き締め、なにやら凄まじい迫力を眼に湛え、女はそう言った。
「女には女の役割がありましょう。業の深さは今生の生き方で償うのです、よ……。」
女が鼻で笑ったので、尼僧は言葉に詰まった。この一筋縄ではいかない女に、あまりにも陳腐な説法じみた返答をしてしまったことを恥じ入った。これでも若くして剃髪した覚悟と矜持はあるつもりである。尼僧は言葉を続けた。
「あまりに馬鹿馬鹿しく聞こえますか。あなたがどんな欲をもっているのか、どんな業を背負っているのか、わたくしの知るところではありませんが、あなたの生き方はつらくはありませんか。苦しくはありませんか。そうした苦しみは欲から来るのです。苦しみのない生は無いでしょう。しかし苦しみを選ぶことは出来るでしょう。俗世のあれこれに思い悩み振り回されるより、ただ一心に仏と向き合い己と向き合う苦しみの方が良くはありませんか。……なにも仏門に入れと言っているのではありません。ただ、あなたの苦しみは尋常ではないように思います。女として夫を持ち、子を持ち、穏やかに暮らしながら日々に感謝し、御仏の救いに感謝し、静かに生きることも出来ましょう。そうした日々が、苦しみを溶かすのではないでしょうか。人にはそれぞれ役割があります。あなたには、女として生まれたあなたには、あなたの役割があるのではないですか。それが幸せに繋がるのではないですか。そうした静かな日々で生まれる悩みや苦しみなど、やがて愛おしくもなりましょう。」
「それは生きるのをやめることだ。」
「いいえ、人として穏やかに生きるのです。」
「穏やかに生きるなど、穏やかに死んでいることと何が違う。それに私は、そうやって生きるには邪魔なものを抱いている。邪魔だが、私がいま生きているのはその苦しみの為だ。苦しむために生きているのだ。苦しみこそ私の生なのだ。その中でしかもう、生きられない。この苦しみはきっと私を殺すだろうが、いま私を生かしているのもこの苦しみなのだ。私は……尼さんにこんなことを言うのは憚られるが、もう充分礼を欠いている、今更だろう……私は仏に縋ろうとは思わない。なぜならそれが救いにならないと確信しているからだ。仏に見放されたとも思わない。最初から見てもいないと思うからだ。」
尼僧は返す言葉を探したが、しばし無言で並び歩いたのみだった。ただ彼女の無事を祈った。この凄まじい女が、救われるよう願った。と同時に、きっと彼女の言う通り、苦しみが彼女を殺すだろうとも思った。
 女とは大宮宿で別れた。

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