「無意識」と表現に対するあれこれ

夏目漱石(明治43年)『それから』(春陽堂)

 『それから』は不義密通のおはなし。
 そう言い切ってしまうにはもったいないこの作から、ぽつぽつと「無意識」やその表現に関する所感を綴ろう。これは降り始めの雨ほどにたどたどしく、一方でアスファルトに斑点を残さんとするものである。

 一歩引いてみてみると、この作品は「無意識」が一つ、大きなテーマであるように思う。
 代助は何事も「研究」しがちであり、また作中の現在においては激することもない人間である。これは、換言すれば、状況や感情をほとんど常に把握できていたということだ。彼自身もそう自覚していたのではないだろうか。自分は理知的な人間であると、そう思っていたように窺える。
 こういった不義密通を描くような作品は、その悲劇性や耽溺に焦点を当てた描かれ方が多いだろう。一方で本作は、恋愛というよりは、「無意識の恐ろしさ」を描いているように思う。ここでいう「無意識」とは、運命的な恋情の引力ではない。代助が過去に行った、結婚の仲立ちである。三千代と平岡の結婚の立役者に、他でもない代助自身がなってしまったという、その過去である。なぜ彼はそうしてしまったのか、作中で明確な説明はない。それは彼自身にも分からず、そうして明確な理由のある行動ではなかったからだと考える。人は、自分で選んだもの、自分で決めたものと思いつつ、その実、流されて行動していることが多々ある。当時は自分の意志だと思っていたものが、翻って考えると、その方が“好ましい”からそうしただけであった、というようなことは、さして珍しいことではないように思うのだ。これは無自覚の善行とも、無意識下の萎縮とも言えそうである。
 代助は、そういった「無意識」とは、もっともかけ離れた存在であるように思える。彼は論理的な一貫性を重んじる性分であるし、自己についても分析しがちだ。こうした人物が過去の「無意識」に苦しめられているという強烈なコントラストが、作品の悲劇性をより強め、恐ろしさを増幅させ、また、先にも述べたような「無意識」の普遍性を高めているのだと考える。人間は完全な理性を手にすることはできない。そうした残酷な事実を突きつけているのではないだろうか。

新心理主義、新感覚派

 なにやら格式ばった単語が出てきたと思ったあなた、おいおい国語の授業かよと思ったあなた、当たらずとも遠からず。本記事はUSBの奥底に眠っていたリアクションペーパーの記録、そのモザイクである。学部生時代の資料を眺めていたら発掘してしまったので、ここに吐き出す次第である。

20世紀の初め、精神分析学をもとに、「意識の流れ」や「内的独白」の手法によって人間の深層心理をとらえて描こうとした文芸思潮。ジョイス・プルーストらがその代表。日本では昭和初期、伊藤整・堀辰雄らが取り入れて新感覚派の作風をさらに深めた。

「新心理主義」(goo辞書)

ええと、20世紀というと1900年代、西暦下二桁に33を足せば明治何年か分かります。
 ちなみに大正は11引く。昭和は25引く。近代文学をやっているとこの変換だけは早くなる。……今は令和何年ですか?
 さて、1900年は明治33年。漱石が『それから』を書く約10年前の欧米では、このような思潮が広まったのである。
 新感覚派はさらに下って昭和初期。昭和元年は?もう分かりますね?

 ここで何が言いたいかというと、「無意識」の表現法、その一つの試みとして、小見出しふたつのキーワードを紹介しておきたかったのだ。

 新心理主義における、連想や視線の先をそのまま描こうとする「意識の流れ」の実践は、その思考や関心、連想の流れを追体験するような読書体験を生むと感じる。
 一方で、そのように描かれる無意識は、とりとめもなく、雑然としているようにも見え(そもそも、人が無自覚的に意識するものは、連想ゲームのように論理性とは関係なく流れていくものだろうから、それを描けばそうした羅列になるのは当然ともいえる)、語りの不安定性も生じるだろう。
 そうした性格を鑑みると、『カリガリ博士』(ロベルト・ヴィーネ監督、1920年)や、

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それに影響された『狂った一頁』(衣笠貞之助監督、1926年)のような、
 

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(こちらもアマプラ……あなたなんでもあるわね……。)

 精神的に不安定なストーリーというのは、新心理主義的な表現法・表現せんとするものとの相性が良いのかもしれない。

 ところで、こうした語りの不安定性が前面に出ている映画作品は、近年でも多いと感じる。SFの文脈で認識の不確実性を描くものや、最近でいえばトッド・フィリップス監督『ジョーカー』も、何が現実なのかわからなくするストーリーであった。また、黒沢清監督『ダゲレオタイプの女』も、そういった表現の映画として印象深いものである。こういった、人間の精神の脆弱さ、主観の不確実性を描く作品は、ショッキングであったり、いわゆる「どんでん返し」的なオチになったりして、娯楽としての受けやすさもあるのではないだろうか。
 ただ、言い添えておかなければならない。「新心理主義的表現で生じる性格やその活用」と、「サイコホラーのような作品のために、結果的に同じような性格の表現法を使用する」ことには、目的に差異があることを念頭において考えるべきだろう。

 なんてことを考えていたわけです、20そこそこの私は。
文章の違いから切り貼りなのがすぐ分かる。私はこれ、過去の自分の文章を引っ張ってきただけだから良いけど、他人の著作物でやれば当たり前に剽窃だからね。大学生になった皆さま、こんな馬鹿みたいな文章をレポートで出したら一発でバレます。
 そもそも剽窃なんて思考をないがしろにした愚行、やめときんさいね。
普段からそんなことをやっていると、いずれ自分の考えさえ亡くす。

 さあ、その「無意識」は自分の考え?過去に見聞きしたもの?ここは案外グラデーションだと思うけれど、少し気を付けてみると面白い点だ。


読まなくてもいいよ

 スマホって字下げ難しくないですか。普通にスペースタップすると半角になっちゃうから、わざわざ「空白」で変換したりして、面倒になって、やがて改行だけの文章になる……。
 いまはこれ、PCから打ってますから、いつもとは違ってちゃんと字下げしてます。
 スマホでもちゃんと体裁整えたいのだけれどね。まあ、私のキーボード設定が馬鹿なのかな。






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