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祖父が遺した戦争に関する手記をまとめています。こんな人たちが居たんだなぁと、誰かの記憶…

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祖父が遺した戦争に関する手記をまとめています。こんな人たちが居たんだなぁと、誰かの記憶にそっと残ることを願って。

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  • 天翔る追憶

    私の祖父、元飛行第七戦隊 機関係機付長 陸軍軍曹 小西康夫による手記「天翔る追憶」をまとめたものです。

最近の記事

五、レイテ島タクロバン爆撃

その日の午後、比島東方海上に出現した敵機動部隊薄暮攻撃の命が出た。午後四時頃、戦隊全機出動した。私は航空兵としての初陣である。 敵艦船からの対空砲火は、どんなものか我々は誰一人知らないのである。戦隊の先輩達も陸上攻撃の経験は幾度となく積んでいるが艦船攻撃は全く初めてなのだ。 だが我が戦隊は大東亜戦争勃発以来、破竹の勢いでニューギニアまで前進し、かくかくたる戦果を揚げた戦隊である。雷撃は初めてとはいえ海軍に負けてなるものかと意気盛んであった。 私が入営のため郷里を断つ時、親父

    • 四、比島クラークへ進出

      中隊本体が石垣島より来たのは、私たちが嘉義から帰って三日後であった。他中隊は既に比島に進出している。石垣島より来たのは六機の中五機であった。一機は滑走路が短いため滑走路をはみ出して飛行機を壊したということだった。 本体が来て俄かに慌しくなった。この台湾で三中隊の来るのを待っていたのは我々と高橋戦隊長であった。 愈々比島に渡ることになった。私の機には正操に畠尾中隊長、副操に戦隊長が乗り長機となった。 六機編隊で台湾を離れバシー海峡へ出る。心なしか海が黒く見える。二時間足らずで

      • 三、台湾進出

        昭和十九年十月、台湾沖航空戦の時は我が七戦隊はまだ訓練中で、然も武装が全然出来ていなかった。そのため予備隊として控置され追撃をかけることになっていたが、攻撃隊の被害が余りに大きかったので遂に使用されず、第五航空艦隊に編入されて改めて体制を立て直し、次の作戦に備えた。 十月中旬頃、敵は比島レイテに上陸しタクロバンに基地を作り始めた。七戦隊は訓練を中止して台湾の高雄に前進を命ぜられた。 この頃は第一航艦、第二航艦とも稼働機数はわずか二~三機で全く消耗し切っていた。我が戦隊は各中

        • 二、戦隊海軍の指揮下に入る

          七月に呑龍から最新鋭の四式重爆「飛龍」に機種を替えた。性能は抜群で呑龍同様七~八名搭乗の双発の大型機であるが、速度も速く上昇率も戦闘機並みであった。形もスマートである。 この飛行機が開発される当時から海軍でも雷撃機に最適であると目を着けていたらしい。軍中央部の話合いの結果であろう、海陸犬猿の仲とはいえ戦局かんばしからざる時、前代未聞の陸軍の我が戦隊は「海軍連合艦隊の指揮下に入れ」の名を受け、鹿屋海軍飛行基地に向かったのである。 鹿屋では第二航空艦隊762航空隊の作戦指揮下

        五、レイテ島タクロバン爆撃

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        • 天翔る追憶
          5本

        記事

          一、軍隊志願

          尋常六年卒業の学歴よりも足りぬ浅学菲才の私。軍国時代、十四・五才の頃、航空兵になりたくて少年航空兵を志願しようとしたが、問題集を見て尋常六年の学歴ではとても無理であった。 然し軍隊より外に出世の道はない。軍隊は学歴はなくとも手柄次第で出世出来る、と安易な気持ちから十八才で一般の現役を志願。 昭和十七年一月から歩兵で北支の戦野を転戦、北支方面軍の下士官候補者教導学校を卒業すると同時に、かねてより憧れだった航空兵を志願し、一年六ヶ月の北支での歩兵勤務に別れを告げ、内地へ帰り所沢

          一、軍隊志願