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五、レイテ島タクロバン爆撃

その日の午後、比島東方海上に出現した敵機動部隊薄暮攻撃の命が出た。午後四時頃、戦隊全機出動した。私は航空兵としての初陣である。
敵艦船からの対空砲火は、どんなものか我々は誰一人知らないのである。戦隊の先輩達も陸上攻撃の経験は幾度となく積んでいるが艦船攻撃は全く初めてなのだ。
だが我が戦隊は大東亜戦争勃発以来、破竹の勢いでニューギニアまで前進し、かくかくたる戦果を揚げた戦隊である。雷撃は初めてとはいえ海軍に負けてなるものかと意気盛んであった。

私が入営のため郷里を断つ時、親父に「お前は絶対に死なないから、思う存分働いてこい」と云われた。親父はその数年前、現登別の熊牧場で有名な加森観光の会長加森勝雄氏が星製薬の釧路出張員であった頃、加森氏に姓名学を習い、以後頼まれて随分他人の名前を観てやっていた。その当たるのには私も関心していた。
その親父がそう云うのだから俺は絶対死なないと信じていた。そんな訳で北支での歩兵の戦闘も随分参加したが怖いと思ったことはなかった。もっとも何時も勝戦ばかりであったからかも知れない。

飛行機には製造番号があり下二桁の番号をその機の固有番号としていた。私の機は23号である。

祖父の手記より引用

私の機の正操は矢田少尉、副操は小沢少尉、航法は青木海軍少尉、無線は家入伍長、後上砲は中村曹長、尾部射手は土屋伍長であった。発信して二時間半、予想海面に達したが敵は既に対比したのか船団を捕捉することが出来なかった。
魚雷を抱いたままクラークに引返し夜間着陸したが夜間着陸設備が不良のため思わぬ事故で他中隊の機三機を失い混乱した。その夜直ぐレイテ島の敵の飛行基地タクロバンを爆撃せよの命により、三中隊の三機だけ出撃することになり、小西、錦、安藤の三機が選ばれた。早速雷装を外し爆装に切替え50K爆弾十五発搭載し再び全員に見送られて飛び発った。

私は忙しさのためセーターを着てくるのを忘れていた。高高度からの爆撃なのである。機は次第に高度を上げて行く。五千米から酸素が必要である。各自一本ずつボンベを持っている。五千米から自動的にマスクを通して出るように調整されてあるのだが、後上砲の中村曹長が酸素が出ないと云うので私のと交換してやった。
彼は調整弁をいじったらしくすぐ直った。機ははおも上昇する。セーターを着ていない私は寒くてガクガク震えが止まらない。

高度千米で五度下がるという。地上温度二十五度でも七千米ではマイナス十度である。現代の旅客機と違って側方砲座の窓は砲が出るための開けっ放しである。外も機内も気温は同じである。
なおも上昇し八千米になる。矢田少尉が戦場到達五分前と云う。私は尾部射手の処へ行き欺瞞紙を撒き始めるよう指示した。敵はその頃既に電波探知器(レーダー)と高射砲を連動させていたのである。その電波を妨害するため欺瞞紙と云って新聞紙に銀紙を貼りそれを三糎巾に細長く切ったものを撒いて電波を反射させ機の位置を欺瞞するのである。

自分の席に戻って矢田少尉にOKをするかしないうちに五段雷の花火のような光が機と同じ高さで炸裂し始めた。照明灯も我が機を掴んで放さない。然し爆撃終了まで航路を変えることは出来ない。
トップの爆撃席にいて標準器を覗き、高度・速度・風向風速を計算し標準を付けているところなのだ。かすかに機がグンと浮いた気がした。投下したのだ。

機は照空灯から遁れようと急降下で右に左に進路を変える。爆撃の成果は如何にと再び目標上空へ引返す。矢田少尉が私に向かって下を指差す。
正操・副操の間が機首への通りになっていて、そこは風防ガラスで下が見えるようになっている。そこを覗くと下は一面火の子を敷詰めたように真赤であった。然しそこが果たして飛行場なのかどうかは爆撃手を信ずるより外ないのである。

照空灯は又執拗に機を掴んで放さない。高射砲も盛んに撃ってくる。長居は無用である。戦場を離脱し基地へ向かう。先ほどまで寒さを忘れていたが安心したせいか又寒くなってきた。矢田少尉に頼んで腕をまくって見せ高度を下げるよう頼んだ。機はぐんぐん高度を下げる。段々あったかくなる。
基地に着いて機体を点検すると高射砲の破片が三ヶ所に当たり穴が開いていたが修理しなければ飛行に差支える程のものでなかった。

それから二日程して本部の山村少佐指揮の下、機動部隊攻撃に戦隊で四機出動した。三中隊から二機である。前回爆撃に行かなかった機である。
この攻撃で巡洋艦一隻轟沈の戦果を上げたが、三中隊の二機共油圧系統をやられ一機は脚が出ず胴体着陸し一機はリンガエン湾に不時着水した。
岡田大尉以下七人、二日後に陸軍のトラックで帰投したのである。


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