見出し画像

四、比島クラークへ進出

中隊本体が石垣島より来たのは、私たちが嘉義から帰って三日後であった。他中隊は既に比島に進出している。石垣島より来たのは六機の中五機であった。一機は滑走路が短いため滑走路をはみ出して飛行機を壊したということだった。
本体が来て俄かに慌しくなった。この台湾で三中隊の来るのを待っていたのは我々と高橋戦隊長であった。

愈々比島に渡ることになった。私の機には正操に畠尾中隊長、副操に戦隊長が乗り長機となった。
六機編隊で台湾を離れバシー海峡へ出る。心なしか海が黒く見える。二時間足らずでルソン島の北端にかかる。海岸には椰子の木が林立している。南方に来たという実感が湧いてくる。
目的地はマニラの少し北のクラーク基地である。海岸より三十分足らずでクラークである。ところがクラーク基地と思われる上空に戦闘機らしい小型機が五機程高く低くあたかも地上を攻撃しているように見える。
戦隊長は「敵の空襲だ。基地と連絡を取れ。編隊を解いて迂回せよ。」と中隊長に云う。翼を振って僚機に合図する。僚機も分かっていたようで編隊を解き西方に迂回した。
やがて基地との連絡で友軍機の演習と分かり大笑いしたのも思い出の一つである。

クラーク基地に降り私は機の整備をした後トラックで宿舎へ向かった。宿舎は飛行場からトラックで五分位の林の中にあった。一米程地面より床の高い竹で組立てたような小屋であった。
早速夕飯にかかったが真にお粗末なものであった。搭乗員こそ白米であったがお菜がない。塩汁にマッチ棒のようなものが五・六本入っているものだけだった。椰子の木の先の芯だろうと云う。台湾とは段違いである。
宿舎の周辺には現地人の子供が缶詰の空き缶を持って残飯ねだりに数人来ていた。

翌朝空襲騒ぎがあったが大したこともなく、飛行場へ行って見たが飛行機も無事であった。
飛行場周辺には海軍の兵隊達が作っている甘藷畑があったがまだ小指程の藷だった。此処は随分食料に不自由しているのが昨夜と今朝の食事から見て伺われた。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?