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二、戦隊海軍の指揮下に入る

七月に呑龍から最新鋭の四式重爆「飛龍」に機種を替えた。性能は抜群で呑龍同様七~八名搭乗の双発の大型機であるが、速度も速く上昇率も戦闘機並みであった。形もスマートである。

この飛行機が開発される当時から海軍でも雷撃機に最適であると目を着けていたらしい。軍中央部の話合いの結果であろう、海陸犬猿の仲とはいえ戦局かんばしからざる時、前代未聞の陸軍の我が戦隊は「海軍連合艦隊の指揮下に入れ」の名を受け、鹿屋海軍飛行基地に向かったのである。

鹿屋では第二航空艦隊762航空隊の作戦指揮下に入り、早速雷撃訓練を受けることになった。
訓練のためには大分基地に飛び、着陸して擬製の魚雷を積み、そのまま飛び上がって別府湾に浮かぶも目標艦空母「鳳翔」を攻撃するのである。基本訓練はやらず、いきなり戦闘訓練であった。
私もだ飛行機一機受領し飛んでは機上機関係、降りては整備と分の悪い任務で朝昼晩の猛訓練で苦労した。

戦隊には海軍士官も各中隊に六~七名ずつ配属になった。彼等は洋上航法係である。陸軍は洋上航法不得手であるため各機に一人乗り航法を担当した。
この海軍士官の中に戦後知ったのであるが、前太平洋製作所社長の村尾尚彦氏と釧路菊まつり実行委員長の林辰蔵氏が居たのである。当時私は釧路の人間がいるとは全く知らなかったのである。

同じ飛行機に海軍陸軍が乗合いで戦った事はあまり知られていないことと思う。海軍の給与は陸軍より数段上で特に搭乗員に対する給与、加給品等は陸軍では口にしたことのない贅沢なものがどんどん至急されたものである。

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