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わかりたい。から対話がうまれる
わかりたい。から、わかろうとする。
人との間にはそれ以外ないのではないだろうか?
自分のことすらわからないのに他人のことなどわかるはずもない。それなのにわかったような顔をする。勝手にそう決めつける。人はわからないことが怖いから、自分の中にあるものに納めようとする。わかって安心したいのかもしれない。だけど、そうやって烙印を押され続けた人は、そのうち自分でもそうなんじゃないかと思い込んでしまう。それが苦しさのもと。
誰ひとりとして自分以外の人間の影響を受けていない人などいない。生まれた瞬間から誰かしら自分以外の人間がいるのだから。
安易に「わかる」という人がわたしは苦手だ。「じゃあ、言ってみてください」そう訊き返すと大抵の人は言葉につまる。そんなもん。そう簡単にわかられてたまるか。そう思ったことがある人も少なくないんじゃないかな。
わからないからわかりたい。わかろうとするには相手から教えてもらう以外に方法はない。教えてもらうには聞くしかない。相手の話をとにかく聴く。聴きながら想像する。わからないことは訊くそしてまた教えてもらう。自分の価値観はとりあえず脇に置いて。それを繰り返しているうちに何かが見えてくる。共通の言葉が生まれ、共通の認識となる。その時それは他人事ではなく自分事となっている。その繰り返しの過程で自分のこともあぶり出される。相手を知ろうとしていた行為が自分を知ることにもつながる。
結局のところ、人を通してでしか、人は自分を知ることはできないのではないだろうか。
わかろうとする。ただそれだけ
その人をわかりたい。から対話がうまれる。
実にシンプル。
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