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「胸を張って走れ」第3話 (note創作大賞2024 お仕事小説部門)

第3話
 
 テレビで観た横浜マラソンの開催日は確か10月の終わりだったはず、と思いながら真帆はスマホで「横浜マラソン」と検索してみた。今年の開催は10月29日らしい。今は3月だからまだ7か月以上もある。それだけ練習期間があればなんとかなるだろう。何の根拠もないが、出来るような気がした。
 
 フルマラソンの大会に出ると決めてから、真帆はランニングにも気合が入った。とはいっても、今までは走るのが週に1回だったのが2回に増えたぐらいだ。
 走る回数は週に1~2回だが、最近では4キロぐらいなら楽に走れるようになってきたので、ある日、真帆はいつものコースを遠回りして距離を伸ばしてみることにした。しかし、どこを走ろうかと考えても走りたい場所が思いつかない。普段の生活では、近所のスーパーと息子の小学校に行くぐらいしか出かけないからだ。
「私ってなんて行動範囲が狭いんだろう」
 真帆は走りながら今までの人生を振り返ってみた。
 
 結婚して悠馬が産まれて、幼稚園に行くまではしばらく子育てに専念していた。しかし、幼稚園での濃厚すぎるママ友づきあいと、家事と育児だけの世界にウンザリして、悠馬が年長になった年に近所のパン屋に求人広告が出ているのを見つけて逃げるように働き始めた。働くのは週に3日なので微々たる収入とはいえ、働いて自分の力で稼ぐことの喜びをかみしめた。
 
 悠馬が小学校に上がると、幼稚園のようにバザーだのお楽しみ会だの運動会だので親が駆り出されることは各段に減った。パートが休みで夫と息子が家にいない平日は完全に自分の時間。撮りためたドラマを観たり、時には自分のためだけの買い物に出かけたりして、「こんな開放感、何年ぶりだろう」と、真帆は久しぶりに自分らしくいられる時間を満喫していた。

 しかし、悠馬が2年生になった時、PTAの役員決めでくじを引いてしまい、よりによって「バレーボール委員」になってしまった。
「バレーボール委員ってなんだよ」
 その存在意義に真帆が一番ギモンを持っていた役職だ。なぜか真帆の住む大山市ではバレーボールが盛んらしく、市内の小学校にはどこもバレーボール委員というものがあるようだ。東京に住んでいる高校時代の友達のメグミに話すと、「何だその委員?」と大笑いされた。
 バレーボール委員の仕事は小学校の父兄から選手をつのってチームを作り、市の大会に出場するまで練習のスケジュールや体育館の手配などのすべてを取り仕切る。しかも、選手の人数が足りない場合は選手として出場しなければならない。世の母親たちがみんな専業主婦だった昭和とは違い、ほとんどが働いているこの令和の時代には選手を集めることすら難しかった。
「やりたがる人がいないんだからそんな大会やめちゃえばいいのに」
 と思うのだが、矢面に立ってバレーボール委員廃止運動をする勇気も気力もないので真帆はおとなしく長い物に巻かれて一委員として責務を全うすることにした。
 真帆はバレーボールに1ミリも興味が持てないというのに、結局、選手が足りなくて毎週土曜日の練習に駆り出されるハメになった。バレーボールなど中学校の体育の授業以来やったことがない。しかもレシーブすると腕の内側が痛くなるので、その当時から大嫌いだった。そんなものに貴重な時間を取られることに真帆は本当に納得がいかなかった。
 
 ちょうどその頃、パート先の店長が移動になり、本社から新しい店長が来たのだが、それがとんでもないパワハラ男だった。それまで悠馬が急に熱を出した時は、他のパート仲間たちとお互い様でシフトを代わり合ったりしてうまくやってきたのに、新しい店長は「これだから子持ちは信用できない」などと、昭和にタイムスリップしたかのような、いや、昭和でも許されないセリフを平気で吐く。真帆が少しでもミスをすると「パートだと思って気楽にやってんじゃねえぞ」などと嫌な言い方をする。
 もともと不器用な真帆は、PTAの役員とパート先でのストレスでおかしくなりそうだった。家でもちょっとしたことでイライラするようになり、まだ小学2年生の悠馬に、
「お母さん、八つ当たりしないでよ」
 と言われて限界を感じ、パートを辞めることにした。
 
 専業主婦でいた方が穏やかな気持ちでいられるし、幸いなことに夫の理解はあるけれど、自分で稼いでないという負い目はぬぐえない。
 職場の人間関係もソツなくこなし、2人、3人の子供を育て、PTAの役員をこなしているお母さんたちは世の中にゴマンといるのに、どうして私にはできないんだろう。私以外の世の中の人たちはみんなうまくやっているのに自分だけが落ちこぼれている気がしてくる…。
 真帆は考えれば考えるほどどんどん落ち込んできた。
「とりあえず走ることに集中しよう」
 
 いつもの公園の池の周りをぐるっと一周まわる。3月とはいえまだ肌寒いが、2月とは違う春の気配が混じっていることを感じて気持ちがふっと緩む。
 池を周るコースの外側は森になっていて、森の中には遊歩道があるらしい。しかし、道がどうなっているのかよく分からないので今まで足を踏み入れたことがなかった。しかし、今日はなんとなく今までと違うことをしてみたい気分だった。
「よし、行ってみるか」
 池の周りの舗装してある道から、「遊歩道」と書かれた看板のところで左に曲がって森の中に入る。池の周りは散歩する人がたくさんいるが、森の中は人けもなく静かだ。家の周りでは聞かない鳥のさえずりを聞きながら土を踏みしめて走っていると、「ここはどこの山の中だろう」という不思議な気持ちになる。
 どこに向かうのかもわからないまま、遊歩道をたどっていく。木漏れ日が網目のように地面を照らす。真帆は子供の頃、「探検」と称して友達と近所の雑木林に入っていった時のわくわくした気持ちを思いだした。
「そういえば男の子たちがエロ本を見つけて騒いでたなあ…」
 感傷に浸りながら走っていると、森の案内図があった。遊歩道は意外とシンプルなコースで、いつも走っている池の外側の道のさらに外側をぐるっと一周しているようだった。すぐ道に迷ってしまう方向音痴の真帆にとってはありがたい。地図で見ると現在地はちょうど池の周りを半周したところで、道なりに行けば森の入口に戻ってこられそうだ。
 
 森の匂いのする空気を思いっきり吸い込むと羽虫が口に入りそうになったが、それでも自然と一体になるような心地よさは日常生活では味わえないものだ。森の入り口に戻った頃にはPTA役員もパワハラ店長もどうでもよくなっていた。
 Amazonで買った安物のランニングウォッチに表示された走行距離を見ると8キロに達していた。ふだんは4キロぐらいしか走ったことがない真帆は、ものすごい達成感で心が満たされ、いつも心のどこかで感じていた劣等感のようなものはすっかり消えていた。
 へんなの。走ったからって何も状況が変わるわけじゃないのに。
 自嘲しながらも、帰りの足取りは明らかに行きよりも軽かった。

(第4話に続きます)

第1話はこちらからどうぞ。


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