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街の上で 感想

このタイトルで察しがついた人もありましょうか。今回は映画の感想です。
そして察しがついた人は何を今頃と思うでしょうが、しかし何を隠そう再上映されてたので先程観てきた次第です。

そもそもこの映画を知ったのは一年半前に下北沢のカフェでした。チラシが置いてあったのです。A4裏表のやつでした。見ればしかも主題歌がラッキーオールドサン。ある種の悲劇です。もう既にこの映画は上映期間を終えていたのにも関わらず、チラシを手に取った時からどうしようもなくこの映画を観たくなってしまったのですから。ローマの休日かのような届かぬ恋か、あるいはロミオとジュリエットのようなすれ違いか。
そして昨日、つい昨日。眺めていた映画館のサイトで再び相見えたのです。

物語は下北沢を舞台に展開され、主人公の古着屋さんの暮らしぶりとその周辺、主人公の恋愛事情とその周辺、主人公の映画出演とその周辺が描かれます。
私の下北沢の思い出というとひたすら歩き回った店舗調査と、寒さと、酒と、念願のハンバーガーです。そんな思い出がある街の映画を観るのは中々特殊ですからこの文章も本旨に沿わなければ悪しからず。

さて、チェーホフは劇中に銃を登場させるのであれば、その後必ず撃たねばならないと言うらしいですが、本作はまさに最初のシーンに全て詰まっているのではないでしょうか。主人公が被写体となった映像、映画の一部は、本を読む主人公の様子。緊張感漂う映像です。目は泳ぎページをめくれず。
主人公が本を読むのは本来自分の働く古着屋のカウンターなのです。それを常々見ていた美大生がぜひにと映画に呼んだのです。
映画に臨んで張り切る主人公。練習したり服も一張羅を選んで。映画を良くする為に。あるいは壊さないように。
ただ彼のシーンは映画を良くするために、カットされます。謂わゆるお蔵入り、やはり最初のシーンのセリフの通り「誰も見ることはできない」のです。
では映画の良さとは何でしょうか。劇中、カフェのマスターが漫画とか映画とかは街が変わっても残る、だから文化(漫画とか映画とか)はいいよね、写真は直接的すぎる、みたいなことを言っていました。詰まるところ、文脈でしょうか。

主人公がただ本を読むシーンを撮るとき、彼がどんな来歴で人生でどう生きているかは顧みられません。実際ガチガチの主人公に代えて急遽別の人によってそのシーンは撮られました。
本を読む主人公の様子は、下北沢とそこの人々から離れて出せない雰囲気であったのでしょう。それを見て、それを切りと出そうとした美大生は特に主人公と親しい訳でもなく、その光景のみを動く写真のように切り出すことを試みたのでしょう。

作中ほとんどのシーンは会話、身の上話に恋話によって構成されます。カフェ、飲み屋、居酒屋、部屋。それぞれの場面ごとに違う関係性と振る舞いを見ることで主人公の人となり、生き方がうつされます。そして例の映画出演の前には生真面目に練習する主人公。
こうしたシーンを踏まえて、我々は主人公が本を読む様子に愛らしさすら覚えるのです。

主人公と、恋敵のイケメン俳優との間にも、主人公の(元)彼女を介してこの対比が見られます。彼女にとって一場面に切り取られて素敵な俳優と、切り取るとガチガチでもその背景が見れる主人公の争いです。ハレとケとか聖俗とかそういう対比とも言えるでしょうか。
それから例えば、劇中の衣装なんかも古着だったり個性に溢れるもので、ファストファッションに落とし込めるものではない各人の文脈を感じさせます。

下北沢の強烈な文脈に狭い繋がりと、それから本作は、ともすれば切り取られた良さというのに気を取られて分かった気になる、真似をするような態度に対するものでしょう。
不器用やら一癖やらを愛らしく見せる本作は殆ど侘び寂びの映画と言えるかもしれません。
そう言った意味で、正に本作は写真には写らない美しさを伝えてくれます。
意味のない味のチーズケーキに意味づけをするのが人というやつでしょう。

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