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暖かいお金。

今日ふと思ったことがある。
結論から言うと、お金には温度がある。(と私は思う)


先日、ちょっとした自分の転換期があって、
「自分の思いに違和感なく生きていきたい」と決めた。その時から、仕事も全て心がトキメク方向に持っていきたいな、と思った。
神様が差し向けてくれたのか?たまたま、「カフェでライブをやりたい」と言って訪ねてきてくれた方がいた。
聞くと、ゴスペルシンガーだとか。おお!なんて楽しそうじゃないか。

10代の頃に、ちょうどリリースされたばかりの「SIsterAct」和名=天使にラブソングを、と言う映画に感銘を受けて、ゴスペルに憧れた。歌ってすごいな、歌上手いってすげえな、と感動したのである。その頃から人生で一番好きな映画は、SisterAct2(ローリンヒルが出てる)になった。
何十回見たかわからない。
それほどにステキ!と思っていたゴスペルのライブを、自分の作った空間でコラボできるなんて夢のようだ。訪ねて来てくれた方も、このカフェでやりたいと思ってくれたことに震えるくらい嬉しかった。いや、嬉しくて震えた。

必然的に、じゃあチケットとか、入場料とかどうしましょうか、と言う話になった。そこは避けては通れない。今までの私だったら、同じような大きさのカフェや、同じような歌のライブの実績を調べて、この地域でウチでやるならこのくらいですね、みたいな話をしていたと思う。

でも、その時は違った。
「せっかく、この店でやるのだから、何か味わって欲しいです。チケット代はいくらでもいいですけど、カフェのメニュー付きにして下さい。自分が美味しいと自信を持って作ったものも、歌と一緒に楽しんで欲しい」
自然とそんな言葉が出た。
「もちろんです!! そうしたいです!!」
シンガーの方も、笑顔で答えてくれた。
その瞬間、私は、嬉しさや楽しさ、ワクワクと一緒に、お腹の下の方から、暖かいものが込み上がってくるような感覚を覚えた。



今までも、もちろん楽しんでイベントを組んでいたのは間違いない。が、違和感を感じることは多々あって、主には価格設定であった。

既存の、過去の、よくある一般的な価格設定なるものから、“大衆”が違和感のない価格を導き出す、それが当たり前だと思っていた。なので、フードやドリンクをつけるとしたら、単価がいくらになって・・・みたいな計算をよく頭の中でしていた。“お客さん”が、総額支払うお金に“違和感がない”金額になることを第一に考えていた。

「カフェでやるのに、ランチ付き、お茶付き」にするのは当然ですよ」
開催者の方からそんなお声をもらったこともある。
その時の私は「カフェの人も一役買っているのだから、利益をもらうのは当然」と言う意味だと解釈していた。しかし、多くの人はちゃんと私のことを考えてくれていたのだと今になって気づく。当然、と言うキーサードを私は勘違いしていた。もちろん、利益を取るべきという意味合いでおっしゃっていただいた方もあったかもしれない。

でもその意味付けは違った。私にとって。そう、私にとっては、である。
「利益が出てないから」「場所を提供しているのだから」という理由は表面的には理解しているのだけれども、私のもっと内側の方には染み込んでこなかった。違和感があった。なぜ、フードやドリンクをセットにすることとイコールになるのか?を本質的にわかっていなかった。
だから、それまではイベントの価格は一般的なものと照らし合わせて、そのイベントの開催者(私じゃなく相手)の思いも組める形でなんとか決める。フードやドリンクをつけることで、価格が高くなって、お客さんが来なかったらどうしよう、と言う不安から、「ランチやお茶付きじゃなくていいです」と言った。
私にとって「折り合いをつける」ような作業だったと思う。自分の内側にあるものを殺して、何かに合わせようとした。
もちろん、カフェメニューのオーダーは当日お客さん任せになるので、欲しい人は頼んでくれるが、なにも頼まず帰っていく人も多かった。お金が欲しいわけじゃないけど、なんかとてつもなく虚しかった。なんでだろう。正体のわからないモヤモヤにかなりの間悩んだ。

だが、最近やっとそのモヤモヤの正体がわかった。
私の内側にあり、自分自身で殺していた気持ち。
このカフェは私にとって自分そのもので、誰かとイベントすることは、私にとっては、自身も参加していると言う意味をもつ。自分の思いのこもったものを一緒に楽しんでいただくことに意義がある。来てくれる人には、私も含めてイベントを作り上げた人みんなのアイデンテティを、全て感じて欲しいのだ。だから、私を無視されたようで悲しかったのだ。例えるなら、「ねぇ、今度、あなたと友達の〇〇ちゃんを誘って、一緒に遊びに行こうよ」と言われたとして、その人の目的は友達の〇〇ちゃんと遊ぶことで、私はいらなかったのだと言うことを知る、みたいな・・・青春時代によくあるやつです。


それはそれとして、イベント自体は成立する。しかし自分の本意でない方法で、得たお金はなんだか無機質であった。金銭的に利益は出て、それはそれでありがたい。が、それは自分が何か思いを込めて頑張って得た利益と言うよりは、「作業」をこなして得たと言っても過言でない。他人の力で稼いだお金だ。私には、温度を感じるとが出来ない、冷たいお金だ。


ある程度のビジネスモデルを知っておくこと、手段や知識を身に付けることは大事である。勉強して、ちゃんとマニュアルに沿って検証を繰り返せば、きちんと利益はでる、と思う。
今まで、自分のカフェにおいてもそうしてきた(つもり)。ワークショップやイベントを開催するときにも、集客はどう言う方法がいいのか、どの媒体をどれくらいの頻度で宣伝に使うのか。目的に向けてのミッションみたいな感じで、それはそれで楽しく、やりがいがある。
でも、それによって集まったお客さんが支払ってくれるお金=利益は、自分にとっては「外側からきたもの」なのだ。自分の外の世界を覗いて、他人のビジネスモデルや、一般論から得た知識を、外側のマニュアルに沿ってただ真似しただけ。出来たつもりになっていた。
そうやって得たお金には温度がない。否、きっと温度はあるのだろう、他の人には感じる温度が。
しかし、自分にとっては暖かく感じない。


自分が生み出したものには温度がある。
仕立てた服、カフェの料理。空間。
そこには、私の心が詰まっている。本音が詰まっている。

それを「欲しい」と思って求めてくれる人が、対価にくれるお金は
暖かい。

不思議なことに、外から真似した方法で、利益だけを計算して得たお金は、またあっという間に外に溶け出ていく。
もちろん、生活を回すためには大変役に立った。ありがとう。
しかし、これからは、できることなら暖かいお金で暮らしていきたい。
それで生活をすることにはなるので、金額としては減ったりするのだけれど、暖かいお金は暮らしに温もりを残していく。

温もりが蓄積してできてく自分の人生は、きっと面白くて、楽しくて、とても暖かいに違いない。

読んでくれてありがとうございます。 ふと思った時に、心のままに書いています。 よかったらまた読んでください。