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Heaven(16話) ――どんな未来になったとしても、僕らは誰かを想うだろう 【連載小説】 都築 茂

 梯子で屋根の縁まで上がり、目の前に広がる広い屋根を見渡す。屋根の一番高いところに、葉っぱの付いた大きな木の枝が引っかかっている。ここまでは、何度も上がったことがあった。僕は、何度も頭の中で繰り返した手順のとおり、屋根の上を木槌で叩いて、骨組みの位置を確認する。念のため、もう一度。骨組みが下にあると、音が違う。音が軽いところとの違いを、確認する。それからいつもより余分に一段、二段と上がって、屋根の上に足をのせて梯子から体を放す。もっと心臓がバクバクしたり、足が震えたりするかと思っていたけど、妙に心が静かで、不思議なくらいあっけなく、僕は屋根の上にいた。
 
 屋根の縁にしゃがんで、深呼吸をする。今からの作業は、屋根全体を木槌で叩きながら屋根材にひび割れや浮き、痛みがないか点検する作業だ。体重をのせる場所さえ気を付けていれば、むずかしいことは何もない。
 下を見ると、ナオがこちらを見ている。高所の作業を見守る役割に徹した、仕事中の顔だ。
僕は、屋根の縁を右手のほうに向かって進み、平行に行ったり来たりしながら少しずつ上に上がり、屋根全体を点検しようと思っていた。屋根の縁から五十センチほど内側を、木槌で叩きながらゆっくりと移動する。ナオは僕の動きに合わせて、ゆっくりと移動する。“梯子を立てた最初の場所でじっと待っている人”には、ならないつもりだ。
 屋根の端まで来ると今度は少し上に上がって、来た方向に戻る。梯子をかけてある場所まで来ると、また少し上がって屋根の端まで進む。何度も繰り返して屋根の一番上まで点検した後、今度は梯子から左手のほうを同じように点検する。梯子のところで左手のほうを見渡したとき、大きな木の枝が引っかかっているのを思い出した。
 下を見ると、ナオがさっきと変わらない様子でこちらを見上げている。
「屋根のてっぺんに、大きな木の枝が引っかかっています。葉っぱがついて、わさわさしたやつです。てっぺんまで行ったら声をかけるので、下に落としてもいいですか?」
「うん、わかった。よけるから大丈夫。」
 ナオが口元に笑みを作って、うなずいた。
 僕もうなずいて、もう一度、屋根を見渡す。絶対に落ちない、と心の中で言葉にしてから、さっきと同じように木槌で叩きながらゆっくり進んだ。
 屋根の一番上の、木の枝のそばまで来た。長い間ここに引っかかっていたらしく、折れた部分が朽ちているように見える。葉も乾いていて、握るとパリパリと砕けた。
「ナオさん、枝を落とします!」
 僕が声をかけると数秒遅れて“オッケー!”と声がして、下を見ると離れたところにナオが手を振っているのが見えた。
 足元がおろそかにならないように気を付けながら、枝を少し持ち上げてみる。案の定、引っかかっていた部分が外れて、枝はゆっくりと屋根をすべって落ちていく。僕は手を放した。枝が下に落ちて見えなくなると、“オッケーだよ!”とナオがまた手を振った。
 僕は枝で隠れていた部分を、念入りに点検した。黒っぽく変色している部分があったからだ。音が鈍いところが一ヶ所、ひびが一ヶ所、見つかった。
「枝の下に、変色があります。ひびが一ヶ所と、たぶん、腐食が一ヶ所。」
 僕は、下にいるナオに報告した。どちらも、いずれはきちんとした修理が必要だ。
「補修でいける?」
 ナオが言った。僕は空を見上げた。湿った空気。遠くに見える灰色の雲。雨の季節が近い。
「ひびは15センチくらい、隙間はわずかで、ふさげば当面は大丈夫そうです。腐食は塗料を塗れば、しのげるかと。」
「わかった。用意して上がるから、動かずに待っていて。」
 ナオを待ちながら、そういえば屋根に上がってからタケルの姿を見ていない、と気づいた。何かあったら助けてくれって頼んだのに、無事に点検が終わったら文句を言ってやる、と考えていると、梯子のところにナオの頭がひょいとのぞいた。木材と塗料のはいった袋を背負っている。
「動かないで。そっちに行くから。」
 ナオは足元を確認しながら、あっという間に僕と同じ高さまで上がってきた。
「場所は?」
「ここと、ここです。」
 僕は動かずに、手で指し示した。両方とも、手の届く場所だ。
「木材を渡すから、位置を決めて押さえていてくれる?」
 僕がうなずくと、ナオは背中の袋から木材を取り出した。
「木材は落としてもいいから、ユウヤは落ちないでね。どんなときでも、それが一番大事。」
 僕が口元を引き締めてうなずくと、ナオは木材を差し出した。
 ひびの部分をしっかり覆うように木材を置いて動かないように押さえると、ナオが釘を数ヶ所打ち込んだ。
「もういいよ、手を放して。」
 僕が手を放して、ナオがさらに数本の釘を打ち込み、最後に全部の釘をもう一度打って、しっかりと屋根に密着させた。 
 もう一ヶ所は、腐食の起きている範囲がはっきりしないので、ナオは音が鈍い部分を中心に持ってきた塗料を全部使って広く厚く塗った。雨の季節の間だけなら、しのげるだろう。
「じゃあ、いったん下りようか。私が先に行くから、後から来て。」
 ナオは手早く道具をまとめると、先に梯子まで行って下に下りていく。僕は来た時と同じように、足元を確認しながら梯子まで辿り着き、下に下りた。足が地面に着くと、平衡感覚が狂っているのか、よろけてしまいそうな気がして動けない。立ち尽くしている僕に、ナオが笑顔で言った。
「おめでとう、ユウヤ。今日が記念すべき、初めて屋根に上がった日だね。
 それから、約束して。これからユウヤがおじいちゃんになって大工を引退する日まで、ずっと、絶対に落ちないで。引退の日は、大工という仕事を無事にまっとうした記念日にするの。今日は、その記念日に向けての、始まりの日。わかった?」


――― 17話へつづく 



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