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『風の谷のナウシカ』から考える生命哲学

日本のアニメ映画を世界に羽ばたかせた宮崎駿の功績


1963年、東映動画でキャリアをスタートさせた宮崎駿だが、高畑勲、森孝二、大塚康生らと3年がかりで完成させた大作『太陽の王子ホルスの大冒険』の興行成績は全く振るわなかった。
※この辺りの話は2023年のNHK朝ドラ『なつぞら』でも取り上げてるよね

その後も興業成績が振るわない暗黒の時代が続く…
いまはTV放送で人気のある『ルパン三世カリオストロの城』も、当時映画としての興行成績は大赤字である。『風の谷のナウシカ』『天空の城ラピュタ』『となりのトトロ』なども劇場公開時の成績はそれほどでもなく、映画としてヒットしたのは『魔女の宅急便』からである。
その後公開した『もののけ姫』によって、それまで『E.T.』(1982年日本公開)が持っていた日本の歴代興行収入記録を塗り替えたのはご存知の通り。

ここからは破竹の勢いである…
『千と千尋の神隠し』で第52回ベルリン国際映画祭金熊賞受賞(2002年)、翌年第75回アカデミー賞長編アニメ賞受賞、そして2005年には、ヴェネツィア国際映画祭で長年の功績に対して栄誉金獅子賞が授与され『TIME』誌の『世界でもっとも影響力のある100人』に選出。
今や、宮崎駿を師匠と崇める庵野秀明を初め、影響されているアニメーターは国内に留まらず世界のそこかしこで活躍している。

『もののけ姫』©1997 Hayao Miyazaki/Studio Ghibli,ND

『風の谷のナウシカ』の映像に不満タラタラな宮崎監督

アニメージュの人たちに勧められて漫画原作を書きはじめたのが1982年。その後、比較的早い段階で映画化が決まったため、映画は第2巻の途中までのエピソードから作られている。その急ごしらえ的なこともあって、想像していたものと誤差が出てしまうのは仕方なかったのだろう。

映画のクライマックス…人為的ではあるが、王蟲が引き起こした大海嘯(だいかいしょう)の最前線で、ナウシカは手を広げ生身の身体でその暴走を受け止め死んでしまう。自分の生命と引き換えに王蟲の怒り…すなわち自然の脅威を受容して多くの民を救ったのだ。
その献身と愛に心を打たれた王蟲が反応する…金色に輝く王蟲の触手によってナウシカは蘇るのだ。まさに友愛のラストである。 
宮崎駿はこのシーンが宗教画っぽくて納得がいってないという。(参照①)元々、絵コンテの段階では王蟲はナウシカの前で止まり大海嘯は回避されて終わるはずだったのだ。

結局、プロデューサーの高畑勲と、当時アニメ―ジュの編集者だった鈴木敏夫に説得され渋々書き直したそうだ。とはいえ、そもそも映画の序盤で

「その者青き衣をまといて金色(こんじき)の野に降り立つべし。失われし大地との絆を結び、ついに人々を青き清浄の地に導かん」

『風の谷のナウシカ』1984年公開

と、古い伝承として描いているのだから仕方ない。これについて宮崎駿は、

「あれは宗教的に終わらざるを得ないんです。今やってもやっぱりね、そういうところに持っていくだろうと思うんですよ。だから、それに対して自分の備えがあまりにも浅かったっていうことですよね」

宮崎駿『風の帰る場所 ナウシカから千尋までの軌跡』(ロッキング・オン)より

と渋々振り返っている。

実際、映画と原作は別物と言っていい程ストーリーが違っている。世間一般的に、『風の谷のナウシカ』を、原作と映画に分けて語られるのはそのせいだ。
映画では横暴な態度で悪者気味に描かれるクシャナ妃殿下だが、原作ではナウシカと共闘する場面もあり、部下の信頼が厚い勇者として描かれている。そう、クシャナとは『風の谷のナウシカ』に於けるもうひとりの主人公なのだ。参謀のクロトワも実にカッコよい。漫画原作では、領土を争う諍いとは、お互いの正義がぶつかり合う不条理なものという戦争の本質に正面から取り組んでいるのだ。

『風の谷のナウシカ』©1984 Hayao Miyazaki/Studio Ghibli,H

宮崎駿が考える人と自然の共生とは

世間一般的に”環境主義者”と称されることを宮崎駿は嫌う。『風の谷のナウシカ』で真っ向から”自然との共生”を描いたのだから当然だけど、「さすが宮崎駿は素晴らしい」などと聖人君子扱いされることがとにかく嫌いなのだ。
エコロジストだとか、ましてや人格者として崇められるなどもっての外で、人前でわざと煙草をぷかぷかと吸うような子供じみた反抗心をみせるのもそのせいだ。このひねくれ方…永遠の思春期である(笑)
とはいえ、自身が会長を務める「淵の森保全連絡協議会」で、地元の雑木林を維持する活動をライフワークにしているのも事実である。(参照②)
『風の谷のナウシカ』をはじめ、『となりのトトロ』『もののけ姫』など、どの作品も人と自然の共生を現代と地続きの問題として描くのは、宮崎駿の根底にある環境保全意識の高さからに違いない。

水俣湾の汚染と”虫愛ずる姫君”から『風の谷のナウシカ』へ

映画も原作も根っこは同じで、腐海は人類を脅かす自然の脅威として描かれている。王蟲の躯(むくろ)…いわゆる死骸を苗床にして、火の七日間戦争によって汚染された大地を覆うように胞子が降り注ぎ、根を張り、菌糸を広げ、瘴気(毒)を発生させながら森を形成し続ける…この展開を思いついた理由のひとつとして、水俣湾の水銀による海洋汚染があると宮崎駿は語っている。

水俣湾が水銀で汚染されて死の海になった。つまり人間にとって死の海になって、漁をやめてしまった。その結果、数年たったら、水俣湾には日本のほかの海では見られないほどの魚の群れがやってきて、岩にはカキがいっぱいついた。これは僕にとっては、背筋の寒くなるような感動だったんです。人間以外の生き物というのは、ものすごくけなげなんです。

(宮崎駿『出発点』徳間書店)から抜粋

ちなみに「腐海」というネーミングだが、モデルになった場所が実際にある。

実は、この<腐海>というのは、実際にそういう土地があるんです。シュワージュという、クリミア半島(またはクリム半島=ウクライナ南部)の付け根にある土地です。それにすごく興味をひかれていたんですね。海が後退して沼沢地帯に広がっていて、アルカリ分が強いのでしょう、一種不毛の地らしい。行ったことはありませんが、その一帯がシュワージュ(腐った海)と呼ばれているというのを何かで読んだときに、すごい言葉だと思った

『風の谷のナウシカ―宮崎駿水彩画集 』(徳間書店)に掲載されたインタビューより

現在は、クリミア半島を併合したロシアがさらにウクライナの土地に進軍して、この地域一帯はロシアの支配下になっているだろう。40年前の物語なのに、現実と悪い意味でリンクしているのが哀しい現実である。

物語の核である、菌類や蟲が汚染された大地を浄化するという飛躍的な想像力が宮崎駿の天才たる所以なのだが、これは今昔物語に登場する「虫愛ずる姫君」と呼ばれた少女からヒントを得たようだ。

さる貴族の姫君なのだが、年頃になっても野山をとび歩き、芋虫が蝶に変身する姿に感動したりして、世間から変わり者あつかいにされるのである。〜中略~ その姫君の、その後の運命が気になってしかたがなかった。

ANIMAGE COMICSワイド版第1巻 寄稿文「ナウシカのこと」


ちなみに、ギリシャの叙事詩『オデュッセイア』に、ナウシカという名の俊足で空想的な美しい少女が登場するが、虫愛ずる姫とこの美しい少女二人をハイブリッド化したことで宮崎駿のナウシカが誕生したという。

文明の発展と自然を愛するという矛盾に抗う宮崎駿


映画の上映日からちょうど27年後…奇しくも同じ3月11日に起こった東日本大震災による津波被害から、『風の谷のナウシカ』で起こる大海嘯をイメージした人は少なくないだろう。

現代社会は、生きとし生けるもの全てと共存を掲げつつ着実に文明を発展させてきた。だがそれは、所詮人が考える自然との共存でしかない。
そんな人類文明をあざ笑うかのように、自然は猛威を振るう。「なぜ神様は私たちにこんな試練を…」などと嘆く気持ちはわかるが、人類などお釈迦様の手のひらで暴れる孫悟空と同じで、地球上に住まわせてもらっている生き物のひとつでしかないのだ。
自然の猛威などと言うけれど、それは人間目線での話であって、地球規模で考えればたいしたことではない。人類の歴史はたかだか20万年であり、地球は46億年生きているのだ。
自然とは雄大な美しさを持つ反面、人の生きる世界を一瞬にして闇に葬る恐ろしさを内包している。その自然と共生する覚悟が自分たちにはあるのだろうか…。
文明発展の歴史は自然を破壊し続けてきた負の歴史でもある。
もはや環境問題待ったなしなのだが、飽食の時代を経験した現代人は、この期に及んで享受した文明を簡単には捨てられない。
きれいな服を着て美味しいものを食べながら環境保全を訴える…矛盾した行為だが、その愚かさを含めて人は生きている。
宮崎駿も同じである。『風の谷のナウシカ』で自然との共生を訴えつつも、それを伝える手段が現代の娯楽であるアニメ映画なのだから。

『風の谷のナウシカ』©1984 Hayao Miyazaki/Studio Ghibli,H


ただ、この辻褄が合わない矛盾こそがある意味宮崎駿がアニメを作り続ける原動力だと感じている。何度引退を宣言してもこの世界に戻ってきてしまうのは、未だにこの矛盾の先に続く道を探し求めているからだろう。

『君たちはどう生きるか』(2023年公開)もまた然りだ。身近な環境保全として地元の雑木林を守りつつ、最新のテクノロジーと電力をふんだんに使って”どう生きるか”を探求する…そんな矛盾だらけの世界で足掻く姿こそが、人間が背負った業だと悟ったのではなかろうか。

『君たちはどう生きるか』©2023 Hayao Miyazaki/Studio Ghibli

物語の原作から、人が生きることの意味を探る


映画では虫も殺さぬ平和主義者のように扱われるナウシカだが、原作終盤では世界を滅びに導く闇として描かれる。この矛盾…宮崎駿が一番苦悩した部分だろう。

この物語の核心である…
王蟲や蟲たちが汚染された壌土を浄化するシステムとは、実は自然発生したものではなく旧世界の英知(人工頭脳)が創り出したプログラムだったのだ。
その清浄な世界にDNA操作されて負の遺産を消された人たちの卵(人間の生命を宿したカプセルのようなもの)を放ち、二度と諍いの起きない人類社会形成のため、音楽と詩を楽しむだけでいい穏やかな暮らしという安寧の未来を旧世界の英知は創造したのだ。

つまり、旧世界に残された最後の知性は、輝かしい未来に解き放たれる無垢に人類の存亡を託したのだ。恐るべき神の領域ではあるが、ド正論である。戦争のない穏やかな未来は、誰もが求める究極の平和な世界に違いない。

ところがナウシカはそれを真っ向から否定する。そんな仕組まれた世界に解き放たれるいのちは生命にあらず、人の生命とは清浄と汚濁の醜さがあるから輝くのだと。
旧世界の英知は「生命は希望の光だ」とナウシカに解き、それを否定するナウシカは「いのちは闇のなかのまたたく光だ」と反論する。(参照③)

光があれば、そこには必ず影ができる…陰と陽は2つで1つの存在。つまり人造の光だけの世界とは、真っ白なだけで光そのものが感じられない世界だと紐解くのだ。
たとえば波のない静かな海岸線があるとする。永遠に波のない静かな世界だ。一見理想的で穏やかな世界のようだが、その海岸線は心電図と同じである。一直線の海岸線とは、脈を刻むことがない心臓と同じ…つまり、真っ白な光だけの世界も、一直線の海岸も、それは等しく死を意味しているのだ。

波が高く打ち寄せ、そして引いてゆく。陽は昇り、陽は沈む。草木たちは芽吹き、花を咲かせ、そして枯れてゆく。そしてまた春が来れば新しい息吹をあげるのだ。人の死は人の生きるに繋がってゆく。その過程に現れる全ての矛盾を受け入れ、ときに間違い、そして抗いながらそれでも人は生きてゆくことを諦めない。それが”人が生きること”であり人生なのだ。

『風の谷のナウシカ』©1984 Hayao Miyazaki/Studio Ghibli,H

参照① なぜ彼女はよみがえったのか『風の谷のナウシカ』にあった幻の3つのラストシーンとは
https://bunshun.jp/articles/-/42438
参照② となりのトトロの舞台となった埼玉県所沢市「宮崎駿の矛盾を受け止めてくれるのは所沢だけだった」
https://www.housecom.jp/faq/category_town/34
参照③ ANIMAGE COMICSワイド版第7巻より一部台詞抜粋
その他
『風の谷のナウシカ』実はバッドエンド? ”原作漫画”と”映画”のストーリーが全然違ってた!
https://realsound.jp/book/2023/06/post-1361172_2.html
「これで食べていけるかな」 宮崎駿監督が心配した「ナウシカ」前夜
https://www.asahi.com/articles/ASR743PLMR73UCVL021.html
《語り残した事は多い》宮﨑駿が漫画版「ナウシカ」で描いた“最後の1コマ”の真意とは?
https://bunshun.jp/articles/-/62847
【UG】宮崎駿が感動のラストを全否定!〜ナウシカ完全解説(1)漫画原作の真相編
https://www.youtube.com/watch?v=VlGHsbu1btw
スタジオジブリ|STUDIO GHIBLI
https://www.ghibli.jp/

参照したサイト書籍など一覧



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