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生きる演技よむ


🎀表紙かわいい

なんで差し色がピンクなんだろう。グレーは茶色とおなじくらい人の心理としては好まれない色で、生きる演技をせねばならない閉塞感を表してるんだろうか。ピンクは昔欧米あたりでは下品、猥雑というパブリックイメージがあったとデザイン本でよんだんでピンクが使われてると妙に気になる。「生きる(血液、鮮赤のイメージ)」演技だから、赤に擬態したピンク?紫でもめっちゃかっこよかったと思う。サイン入りの本ってすごくいいな。

↓全部ネタバレ

👻納得させられる実感

なぜ普通の高校生が立川の虐殺事件に興味を持つのか、そこまで虐殺事件に対して熱を持ってないはずの外部の生徒が劇をどうして手伝ってくれるのかとか
今私が生きている現実と離れたところがあるなと『恋の幽霊』でも感じた。
でも、ちょっとしか出てこない人物もいるのに、そのだれもが精彩をもち、確かに生きていると思わされる。ちゃんと人物の見分けがつかないと小説についていけないし。他作でも同じ感想を抱いたから町屋さんの作品は少し予定調和と離れていても実感を持って読める。

🫰好きポイント

過去作『しずけさ』のいつきくんが出てきて、この作品を読み通す推進力になった。あの静かなサラリーマンにつんけんしていたカワイイいつきくんが立派になってた。ちいさいころの体験のためか、今も警察を憎んでるところもいつきくんみをかんじた。

あと好きな文章、

この先にある文章の意味がよくわからないな、と思うと海だった。

『生きる演技』(p349)

この何気ない一文にぐっときてしまった……
一回えっ?てつっかえてしまってもう一度この文を読んだときおどろいた。
手紙から意識がそれてふと顔を上げて窓を見る、という動作だと思うけどそれを「海だった」という一言で表してしまうなんて私は絶対にできない。

😶‍🌫️結末、笹岡の暴力の理由

劇の最中も笹岡は暴力を利用する。仲の良い笹岡と生崎は、他人からみれば表情をわからなくさせ、人となりがわからないほどお互いを演じていた。これって『恋の幽霊』の皮膚の境界線をなくすほどとけあった4人の関係にも似ている気がする。

「混ざってる、わたしたち?」
わたしが笑う。それはだれのわたし?ってこのころから、わからなくなってたね、わたしたち。

『恋の幽霊』p114

笹岡が生崎の父親を憎しむ役割を引き受けて演じたことで、笹岡の暴力が破滅を呼んだのではないか。

笹岡は少年院行きとなり、2人の皮膚の距離が遠く離れ、生崎は笹岡が自分の言葉を徐々に取り戻していくのを感じて腹立たしさを感じる。なんでだろう。
生崎は「ただの親友(だった人)」として離れていく笹岡にコンプレックスを感じたようにも思える。

本番が終わってしまえば戻ろうな、ただの笹岡とただの生崎に。
ただの親友に。だけど、それってどんな感じだった?ただ親友だった日々のことを、笹岡はもうよく思い出せなかった。

『生きる演技』(p349)

笹岡と生崎は恋の介在しない、友情で結びついたカップルのようだと思った。
笹岡に面会した生崎は、笹岡の言葉を期待していた。

そして、土に告白されるまえ、土が京を「すき」といったもっとそのまえから、ずっとずっと土のことをすきだったのだと気づいた。それはべつに気づかなくてもいいことだ。一生、気づかなくてもよかったこと。ひとの人生の裏側の、選ばなかったすべての選択の結晶だ。嘘の永遠で永遠の嘘だ。そのふたつのあいだにずっとありつづける幻だ。

『恋の幽霊』(p219)

たぶん彼らのあいだに恋を生むことも可能だったのではないかと思う。笹岡が留置所という場に言葉を奪われた側面は結果としてしか残らず、ただの親友、という選択をしたように思った。恋はあくまでありえたかもしれない幻となり、ただの親友だったふたりはあっけなく過去になる。

この小説のつづきを妄想するとすれば、笹岡と笹岡の文体をもらった生崎は別々の道を歩むのではないかと思う。

類推したわけではないけど、映画「イニシェリン島の精霊」を思い出した。
仲良くしていた独身男性の友達ふたりが突然仲違いをする話。作中ではカップルめいた描写はほぼみられないものの監督は破局を描いたと発言していた。彼らの間に恋心があったかは不明だが、物語の人物からもらうシグナルだけがすべてじゃないと気付かされた作品でもある。自分の頭のなかで解釈する余地のある小説はカスタマージャーニー作ってるみたいで楽しいんだ……

🤧わからんかったところ(たくさん)

インタビュー発言を引用。

人間は、社会と個人との間に常にいるものです。どっちでいるにしても演技をしているし、させられている。そんなことを書こうと思いました。私も会社に勤めたことがありますが、職場と家庭など、その人がいる場所によって、ぜんぜん違う自分になるのは、ある意味で演技だし、同時に全部本当の自分でもあるんだと思います。その辺りの分かちがたさを考えて書いていこう、というのが全体を通しての狙いでした。

https://news.yahoo.co.jp/articles/1424c3603edb6d74255a77d3abeadb610076b9e3

このインタビュー見てやっぱり分人主義と通じるものがあると思ったけど、
生崎の「人生はキモい」と場に応じ演じねばならない社会を否定する発言は、演じることへの否定ではなく自己否定だったのだろうか。そのあたり読み解けてない。
演技とか恥とか暴力とか普遍的な言葉の意味づけや解剖が絶えず行われていて無学な私では咀嚼が追いつかない部分もあった。

新潮の生きる演技の批評(中西智佐乃さん)に答えを求めて読んだ。
「われわれ」という人称の正体や登場人物に名前がつけられていることにより場の空気を与えられていることなど、明晰な読みが得られた。ただ一部の要素への批評であり、文芸誌2ページではプロでもこの作品を包括的に論じることは難しいということが伝わった。

何しろ枚数があるので多分読み返して少しずつ理解してく感じになると思う。本作で「小説家として一回死んだ」(いい意味で)という町屋さんの次回作が予想できなくてわくわく、刊行される予定の私小説集が夏の楽しみ。
面白かった。


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