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ひとりごと:誕生日と命日について【エッセイ】

私の誕生日は、親戚の命日でもある。

東北の4月はまだ寒くセーター必須なのだが、そんな寒い日の夜、親戚のおじさんは亡くなったらしい。

私は生まれてすぐだったので、顔も知らなければ、その人の性格も知らない。

ただ、「私の誕生日と親戚のおじさんの命日は同じ」という情報だけ知っている。

私にとっては「知らない人」なのだが、不思議なことに誕生日が来るたびに思い出す。

今回は、「誕生日が知り合いの命日、という人は生死を意識する機会が多くなるので、人生の質が上がる」という内容の記事をネットで見つけたので、
本当にそうなのか考えてみた。

誰かの誕生日は誰かの命日

最初にも触れたが、私の誕生日は4月なのだが、親戚の命日と重なっている。
しかし、別に珍しいことでも無いだろう。

言わないだけで、実はそういう人は少なくないと思っている。

冷たい言い方かもしれないが、「365日」と1年の日付が限られていて、人がたくさんいる以上、誰かの誕生日は、誰かの命日だ。
関係が近いか遠いか、知っているか知っていないかの違いだけなのだ。

「生き死に」のフィルター

祖母から、物心ついたときに「あんたの誕生日に、親戚の○○さんは亡くなったんだよ」と教わった。
私に何を伝えたかったのか、その真意はわからない。

その人の分まで生きなさい、ということなのか、単純に世間話だったのか。

今でも毎年思い出すエピソードなので、その「生き死に」のフィルターを通して普段から物事を見ているのかもしれない。そう考えた。

「死」を意識する、と言うと暗い印象を受けるかもしれないが、それを意識することによって、普段の生活や出会いを大切に出来ていると思う。

「人生の質」は人によって考え方が違うと思うが、「当たり前なんてものはない」という自分の考え方は、個人的に気に入っている。

なぜ丁寧なのか

ここ1年で知り合った友人たちや知り合いから、「丁寧だ」と褒められることが多い。
以前から言われていたのかもしれないが、最近その「丁寧」という言葉を意識する機会が多い。

なぜだろう?と、根本的なことを考えてみたのだが、もしかしたら私は、無意識にいつ死んでも良いようにしているのかもしれない。

結果として、そう考えついた。

親戚は、突然亡くなったらしい。

まだその予定はないし、まだ生きていたいが、「いつ何が起こるかわからない」という意識が、親戚のこと思い出す度に、私の中に刷り込まれているのかもしれない。

まとめ

今回振り返ってみて、冒頭に紹介したネットの記事は、あながち間違いではないかもしれないと思った。

今ある「当たり前」に感謝しつつ、またこの1年を過ごしていきたい。

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