見出し画像

さよーなら、とは。

今までも思っていたことだけど、最近、頓に思うことがある。人生って、思っていた以上に『二度と会うことのない人』が多いのだと言うこと。

以前からなんとなくは思っていたけど、でも若いうちは認めたくなかったのかも知れないし、本当には理解できていなかったのかも知れない。でも、それは避けられないことだし、やはり色々な人達が私の元を去って、いや、向こうさんからしてみれば私が去っていったのかも知れないが・・・・・・いずれにしてもそのような経験が増えていく度に、その認識を強めていき自意識の中で表面化した、とでも言うべきなのかも知れない。
コップに注いでいる間は真横からはその中の液体が見えなくとも、溢れるギリギリまで注いだ挙句に表面張力で上面に張り出した際に、ようやくその液体があることを認識できるように。

でも、そうなってからは溢れるか否かは時間の問題であり、きっとその存在を乱暴に振り払おうとすると、一気に飛び散って取り返しのつかないことになるのだろう。コップの周囲に液体が飛び散り、拭き掃除には時間がかかる。シミになってしまうかも知れない。そうすると立ち直るのに時間がかかる。
そんな時、表面張力の部分をうまく啜って飲み込むことで、自分の中の問題や感情を体と心の中に受け入れると良いのかも知れない。コップの中が液体でなみなみであることに何ら変わりがないが、瞬間、溢れて飛び散ることは防ぐことができる。時間が必要なことに変わりはないが、もう少しうまくやれる気がする。

『二度と会うことができない人』と言うのは、何も離れていった人達ばかりではない。
この世にもういない人も同じだ。
最近、そんな人が増えてきた。自分はまだ若いつもりだが、それでも世間一般で言うところの「若い」と比べてみればそうでもなく、自分もそうだが周りの人達も、段々と歳をとってきたと言わざるを得ない。認めなくてはならない。

身内や近所の人達、好きな歌手や俳優、芸能人。
知っている人達がいつの間にか死んでいく。その度に大きく感情が揺れるわけではない薄情ものと表現できるような人間であるのだが、一方でいち人間としては少なからず影響を受け、引きずっているものだ。
自らが自覚していようともいなくとも、否応なしに考え感じているのだ。いや、そう思いたいだけなのかも知れないが、それはきっと、自分と他者の間に何らかの関係性や影響を求めたいだけなのかも知れない。
または、改めて振り返ることでその他者から受けた影響を棚卸するとでも言おうか。

それはきっと、人間がこの世で生きる上で避けられない、避けるべきではないものなのだろう。その経験が、人にこの世で、今世でできることの限界を思い知らせるし、だからこそできることややりたいこと、楽しいことをもっと味わってから死んでいくべきだと思わせる。

最近話題の、ただし私は今日初めて聴いたのだが、米津玄師の『さよーならまたいつか!』は琴線にビンビンくる。
それは良いのだが、なぜか「二度と会うことのない人達」のことに思いを馳せてしまうのだ。

歌詞がそれを意識しているのかも知れない。朝ドラの主題歌ということで、その内容に沿った歌を作ったとのことである。
ドラマの主人公が生きた世界から見ると、今がちょうど100年後なのだそうだ。そして、それを歌詞で豊かな感性を以て表現している。
SNSのコメントを見ると、やはり同じようなタイプの感想や受け止めかたをする人達がいるようで、この人達とは旨い酒が飲めそうだと思ったが。
その、100年後の世界とコンタクトを取ろうかとでもいうような、いや、きっと実際には生きている人間が100年後の世界とコンタクトを取ることは現実的に難しいのは重々承知しているのだが、自らが生きていなくとも100年後の世界とのつながりを保つことはできるのではないか、というある種の諦めにも似た希望の世界を描いているように思うのだ。

これは、とても良い希望の持ち方のように思う。
知らんけどきっと仏教みたいな感覚なんじゃないか。知らんけど。

今世でできることは、一度の人生でできることは、演じることができる幅は限られているし、やるならそれ以外の可能性を切り捨てていかなければならないこともある。
だからこそ、それは来世で拾っていけば良いから、安心して今世を生きないとね。

あー、良い歌。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?