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「戦争」と「覚せい剤」の切っても切れない関係

覚せい剤として有名な「ヒロポン」は裏社会では「シャブ」と呼ばれ、やくざ映画や刑事ドラマでもおなじみの薬物。               「ヒロポン」は売り出された時の商品名で、正式名称は、日本の薬学者が開発した「メタンフェタミン」。

現在ではあまり知られていないが、実は戦争と覚せい剤は切っても切れない関係にあり、戦意高揚のための「軍歌」と同様、安価で大量に調達出来る上に効果抜群の重要な「軍需品」「兵器」だった。

日本だけでなく欧米をはじめ、戦争をした国では多かれ少なかれ使用されているが、中でも量的に突出していたのが日本とドイツ。両国では、覚せい剤に依存して戦争を遂行したと言っても過言ではないほど、大量に使用された。

薬物研究では、覚せい剤を服用するとドーパミンとノルアドレナリンの放出作用により、眠気や疲労を感じなくなるだけでなく、ハイになって全能感に満たされたような錯覚に陥ると報告されている。

突撃の前に服用すると戦闘に対する恐怖心が薄れ、正常な判断力もなくなるため、命令に従順な疲れ知らず、命知らずの兵士が出来上がるという一石二鳥の効能があり、軍隊で重宝されたのも頷ける。

戦時中、頻繁に使われていたにも関わらず、タブー扱いになっているためか、諸々の戦記ものや戦争映画にも全くと言っていいほど出て来ない。

しかし、例えば航空部隊では、ラバウル基地から遠距離にあるガダルカナル島を攻撃する長距離飛行などにも使用された他、戦争終盤の神風特別攻撃隊では当時「突撃錠」と呼ばれた「ヒロポン」でキメて、出撃するのが日常化していた。

また、玉砕間近の日本軍の「バンザイ突撃」の際にも、当然使用されたはず。その頃まで薬が残っていれば、だが。

ヒロポンが使われたのは、前線だけではない。             作業能率を上げ、昼夜ぶっとおしで働かせるために軍需工場でも大量に配布され、勤労動員された学徒たちも半強制的に飲まされた。

勉学の代わりに滅私奉公による強制労働が当たり前になり、勤労動員に異を唱えようものなら、即座に警察に目を付けられ非国民とのレッテルを張られて迫害を受ける。戦時中は奴隷と言っても過言ではないほどの人権無視がまかり通っていた。その上、軍需工場はB29の第一攻撃目標だったから、満足な防空壕もない中で多くの学生・生徒がが爆死した。

戦時中、覚せい剤を使用した日本人は軍人・民間人合わせて約285万人に上り、この内少なからぬ数が薬物中毒にされた上に、敗戦後、大量の覚せい剤が軍の倉庫からから横流しされて出回ったため、市中にも覚せい剤中毒がまん延した。

敗戦のドサクサを利用して覚せい剤を含む大量の軍需物資や食料を横領隠匿した帝国陸海軍幹部や政治家、高級官僚、警察幹部、GHQ、それを売りさばいた笹川良一、児玉誉士夫などのフィクサーたちは大儲けして、一夜で大富豪になった。 

彼らは本土決戦のために備蓄した軍の物資を我先に盗んだ犯罪者であるにもかかわらず何の咎めも受けず、国会における責任の追及も結局うやむやになっている(隠退蔵物資事件)。それどころか笹川や児玉などのフィクサーたちはその資金力にものを言わせて戦後の自民党に大きな影響を与え、その政策をも左右した。

笹川良一の力の源泉は、こうした豊富な資金力。巣鴨プリズンから出所後、自民党に公営ギャンブルである「モーターボート法」を作らせ、法案成立後は第2代会長として「日本モーターボート競走会」を牛耳った。

笹川は博打の胴元としてため込んだ巨額の売上金の一部を元に1962年「笹川財団」を設立。その後「日本財団」に名称変更したが、280億円以上ともいわれる巨額の財産にものを言わせて、支店とも言える「東京財団政策研究所」と共に現在も自民党や世論に大きな影響を与え続けている。

1968年に岸信介らと統一教会の政治部門である「国際勝共連合」を設立したのも笹川良一で、資金面での面倒を見ると共に名誉会長に収まっている。

戦後野放し状態だった覚せい剤取引は1951年の「覚せい剤取締法」施行後非合法化されて地下に潜り、長らく反社会勢力の資金源になってきたことは皆様ご承知の通り。           

しかし、日本軍及び政府による覚せい剤大量使用の事実が「七三一部隊」と同様に「黒歴史」としてメディアにタブー扱いされているため知られていないだけで、大元を辿れば覚せい剤を大々的に広めたのが戦時中の軍部や政府である事は明々白々。

戦争と覚せい剤の関係を唯一取り上げているのが、新田たつおの近未来ディストピアマンガ『隊務スリップ』。

少しだけだが、こちらの記事で触れている。

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