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父をあきらめてしまった話


先日、『長いお別れ』の記事を書いている途中で父のことを思い出していた。私は小さい頃からお父さん子で父の事が大好きだったのに、思い出したのはとても残酷な話だった。


父は15年ほど前に亡くなった。脳腫瘍だった。
始めの頃は、足に痺れや痛みを感じて整形外科に通っていたがあまり良くならず、念のため脳の検査をしてみたらどうかと、何も無ければそれはそれで安心だからと勧められて脳外科を受診し、その日のうちに入院した。腫瘍なのか、脳の腫れなのかを見極めるため、2週間ほど投薬で様子を見るか、頭を開いて細胞の検査をするか、私たち家族に二択を委ねられた。

私たちは投薬を選んだ。

しかし2週間後の大事な検査の際、血管造影剤の注射を担当したのが若い駆け出しの看護師さんで注射がなかなかうまく出来なかったことと、CT検査後の医師の「最初の時と今回とで、撮影した場所が少しズレていてはっきりとしたことがわからない」という説明に不安と不満を感じた父は、転院を希望した。すると、昨日までは投薬で様子を見るのもアリだと言っていたのに、担当医ではない病院のお偉い先生方が父の病室にやってきて父のベッドを取り囲み「すぐに手術をしないと大変なことになる」と言って、転院に反対した。

病院に対してますます違和感を感じた父は、再度担当医に転院したいと告げ、担当医は了承した。その時担当医は父に、お偉い先生方が脅すようなことを言ったことを詫びてくれた。


父の同級生が日赤病院の脳外科医だった。始めからそこへ行けば良かったのだが、父も最初はまさかこんなことになるとは思っていなかったのだ。

その先生は言ってくれた。手術すれば良くなると。
父の手術は無事終わった。しかし手術後私たち家族は先生に呼ばれ、父の腫瘍が思っていたよりよくなかったことを告げられた。そして放射線治療が始まった。残っていた腫瘍は小さくなり無事に退院できたが、月1回の通院治療は続いた。

手術から何年か経ち「もうこの病気で命の危険は無い」と言われた。‥ところがそれからひと月しないうちに再発したのだ。今度腫瘍が出来た場所は、手術が出来ない場所だと言われた。運動を司る場所で、だんだん歩いたり出来なくなるだろう、と。そう、余命宣告。1年は持たないだろうと。6か月、あるいはもっと短いこともあるかも知れないと。


それでも救いだったのは、この病気はだんだんいろんなことが分からなくなるから、自分の病気のことも分からなくなるから、本人は苦しまないはずだから、と言われたことだった。

残された時間をどうするか。日赤病院は自宅から遠かったので、私が住んでいる近くの病院に入ることになった。治療的なことは何も出来ないけど、と言われてはいたが、家で母が1人で面倒をみるのは無理だから置いてもらえるだけ有難いと思った。私は当時専業主婦だったので、毎日昼ごはんの介助に通った。私が行くと父は必ずトイレに行きたがった。1人での歩行は難しくなっていたので襁褓をしていたのだが、襁褓に用を足す事に抵抗した。始めは看護師さんに手伝ってもらってトイレに連れて行っていたが、看護師さんも「襁褓をしてるからそこにしていいよ」と少し面倒くさがっている感じがあったので、私もだんだん頼みにくくなっていった。

私は日赤の先生の、本人は病気のことは分からなくなって苦しまないから、という言葉に縛られていたのだ。

本当は、父はいろんなことをちゃんと分かっていたし、プライドも持っていたし、人間らしく扱ってあげるべきだったのに。

私は父のことをあきらめていたのだ。

本当に動けなくなるその日まで、父が自分で限界を感じるその日まで、トイレくらい連れて行ってあげたらよかったのに。その時の私は、父の思いを理解しようとしていなかった。



父が亡くなった時、看護師さんが話してくれた。
「お父さん、いつも言ってたんよ。『なかなか死ねんもんだね』って」



父は私があきらめていると、感じていたのだ。娘の手を煩わせることを申し訳なく思っていたのだ。周りの人達は言ってくれた。「最後にお父さん孝行ができてよかったね。お父さんも嬉しかったと思うよ」と。

そうだろうか。毎日娘が会いに来ることは嬉しかっただろうが、その娘が希望を持って無いと感じて苦しかったはずだ。私は父を苦しめた。


それでも、毎日通って父のお世話が出来た、この一点で私は救われるのだった。




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