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拘る時拘ればこだわろう


先日読んだ本に出てきた文章に、私はハッとした。

何かに拘れば拘るほど、人は心が狭くなっていく。
幸せに拘れば拘るほど、人は寛容さを失くしていく。
(自転しながら公転する/山本文緒)


私は拘りが強いほうだ、と思う。拘りは自己中だ。周りからしたら面倒くさい人だ。良いと思ったら、もうそれしかダメ。似たような代用品では納得出来ない。今も拘りを持ってある物をずっと探している。ケースに入ったスプーンだ。職場のデスクの引き出しに常備していた物が、古くなって持ち手が朽ちて、捨てた。だから代わりの物を探している。でも思うような物に出会えない。私の欲しい物はこの世には無いんじゃないかと思えてくる。お箸とセットになっている物ならいくらでもある。私の“可愛い”を満たす物もある。でもお箸がいらない。いらないなら家に置いておけば良い。でもそれではダメなのだ。


家の玄関に植える樹一本にしても、私は拘っていた。本当はもっとゆっくりじっくり選びたかったのに、ちゃまに急かされた。結果的には良いチョイスだったようだが、「とりあえず買って帰って、枯れたらまた買えば良い」というちゃまの言い草にカチンときた。


そういうちゃまも拘りが強い人だ。特に食べ物に関しては、非常に面倒くさい。そう、その樹を買いに行った帰りに何処かで食事をしようという話になり、私がたまたま通りかかったオシャレなカフェにしよう、と言って駐車場に入った。いつも同じお店で同じ物ばかり食べさせられているので、たまには違うお店に行きたかった。ちゃまも一瞬はそう思って同意したはず。ところが車を下りてお店の入り口に向かいながらこう言った。
「(自分が)食べられる物、あるか?」
「あるよ。カフェなんだから、ランチメニューあるから。食べられる物、絶対あるよ。」
するとちゃまは言った。
「なんか、不味そう」
初めて行くお店で、メニューも見ずに、不味そうって、ある?先入観の塊じゃん。結局ちゃまは、ナポリタンを注文し、「わりと美味しい」と言いながら食べ、食べ終わって「美味しかったからまた来る?」と聞くと、「あんまり好きじゃないから、もう来たくない」と。ナポリタンよりミートソースが良かったのに、と。そういう事を、お店の中で言うか?聞いた私が悪いのか?


拘り強め夫婦は、お互いの拘りに縛られながらも、なんとかかんとかやっている。これが幸せなのかも。幸せに拘ると寛容さがなくなるので、これくらいが丁度いい。



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