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受け取って受け継いでいく

『さざなみのよる/木皿泉』を読み終えて最初に思ったのは、「これテレビドラマに丁度良い」だった。各章を1話として登場人物それぞれのエピソードとちょっと良い話がつまっている。ドラマ化されたら絶対観たい、と思ったら逆だった。NHKのドラマ『富士ファミリー』の小説本だったのだ。見逃したことが悔しい。

大枠の主人公は小国マスミ。しかし物語は彼女が43歳という若さで癌で亡くなったところから始まる。

この物語に出てくる人々は皆、生きていた頃のナスミから何かしらを受け取った人たち。ヤル気とか生きる意味とか思い出とか。そういうものが今に繋がっていてそれぞれの日常を生きている。

皆の記憶の中のマスミは、何とも大らかで器が大きい。でも繊細。皆ナスミに言われたことやしてもらったことの意味を、何年も経ってから「あぁ、そういうことか」と思える瞬間がある。皆ナスミに救われた人たちだ。泣ける話だ。それでも読後何故かホッコリするのは、“死”を描いていながらもそれが決して終わりではないと物語全体がそう教えてくれたからだ。

ナスミが好きだった漫画の結末を気にする姉と、その漫画家の交流とか。母の形見のダイヤモンドをナスミが“柱の目”にしたことを、ナスミの後輩が家族に伝えにくる件とか。ナスミのように亡くなった後何かを残せる人になれるか、なりたいというのは難しい。それは何かを残そうと思って行動したわけではないからだ。それは日々の関わりの中で積もっていくようなもの。誰かの思い出として、あるいは生きていく道標として、誰かがナスミのことを思う時にその“何か”は現れる。受け止める側が「あぁ、そうか」と思えたら、そうなんだ。そんな風に死を軽やかに描いてくれた作品だった。

私も今年の1月に実母を亡くした。亡くなってから事あるごとに母のメッセージを感じる。決して霊的な意味ではない。「こんな時母だったらどうしたかな」「母ならなんて言うかな」そして私が勝手に「きっとこうだ」と導き出した答えはきっと正解だ。それが母が私に遺してくれたものだと思う。

死は誰にも訪れる。大切な人を亡くす経験もきっとする。そんな時、死んだらいなくなってしまうのではなく、死んでも(心の中とかで)生きているんだと分かれば、どんな人も皆誰かの何かになれる。

だからナスミのように、ガハハと笑って生きていこう。

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