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外向けのプロフィールには載せてない事

昨日、1年ちょっと温めてきた新事業のティザーサイトが無事にローンチされて、今日はホッと一息ついてます。(まだみてない方はこちら。https://www.localdiver.jp/

でも、せっかく始めたnoteが(また!だいぶ前に一度初めて、2つ目の記事で脱落)二日坊主になるのは悔しいので、今日ももう寝たいけどちょっと書き留めてみます。(終わるかな?)

昨日のリリースの自分で頑張って用意したプロフィールを見てふと思ったんですよ。これだと自分はかなりリア充中年おじさんだと思われているのではなかろうかと。

だって、すげーかっこつけて、読んだ人に好印象与える為にいろんな良い事を250文字くらいにギュ〜っと詰め込んで… いや、確かに聞こえは良いですよ。でもあれは本当の僕じゃない!みんなもそうだと思うけど、俺の人生はあんなにキラキラした経歴ばかりではできてないわけです。

でもここで自分の45年の人生の闇をドバ〜っと吐き出すと、たぶん村上春樹の1Q84超えるくらいのボリュームになるかもしれないし、そもそもそんなに興味ある人もいないであろうし、そして何より、それらの事実を知って今更傷つく輩もゼロではないかもしれないので、今夜はいくつか小出しにして、また時間ができた時(できるのか?)にじっくり書きますね。

っというわけで、山﨑満広のキラキラしたウェブプロフィールには載ってない(載せづらい)話のはじまりはじまり。

その1。キャリア編。

まあ、これは履歴書に書かないよね。

14歳で初めてお金もらったバイトは茨城県石岡市のどこかのお祭りの屋台で焼きそばと大判焼き焼くの手伝いました。そう。バイトデビューは中二で、仕事はテキ屋の手伝い。

周りにいる人やっさしかったけど、見た目怖かったな。確か、う母ちゃんの知り合いの紹介だったな。(でも、うちの家系はそっち系ではないですよ。)その日は午後から準備手伝って夜9時半くらいまで焼き場と水場の往復5万回くらいして(うっそ〜!!)クタクタになった。(これは本当。真面目だから)でも、ただで焼きそばと大判焼きの出来損ないたくさん食べて、バイト代5,000円(イエイ!)までもらって嬉しかった。もちろん学校には内緒さ。

高校に入って2年の終わりまでは茨城県内の強豪バレー部で超真面目に(坊主頭で奴隷のように)練習して、先輩も同期も後輩も何人も辞めていって、気づいたらチームで一番背の低いのが自分だった。

2年生で関東大会に出た時、選手名簿見たら俺より背が低いやつ(やっぱり気になるさ)一人しかいなくてね。(しかも同じ身長166cmのやつがあと2人!!)そうなると同じ練習してるのにずっと補欠で、3年生なのにピンチサーバーとかやるのきついんで2年お終わりに退部しました。(そのあと助っ人として何度か呼ばれたけどね。春高の県大会決勝とか出た。そして残った長身のチームメイト達はなんと!インターハイ行ったけどね。)

それで急に暇になったんで、またバイトに目覚めるわけです。ん〜、ちょっと長くなるのでリストにしますよ。この時、当時17歳の終わり頃から20歳でアメリカに留学するまでの2年ちょっとの間にいろいろやりました。

海の家の客引き(二度も車に轢かれた)

ステーキ宮(知ってるかな?)で皿洗い→サイドとサラダ→シェフの手伝いで肉焼きもちらほら

和食屋さんで調理

ライトオン(ジーンズ屋さん)で接客

日立製作所で派遣社員としてVHSビデオ(時代を語る感半端ない!)、洗濯機、業務用ポンプ、などの生産ラインでロボットよりも簡単流れ作業を1日10時間 何百回も繰り返した。(余談ですが、この時、よく怒られたVHSのライン長さんが、なぜか自分と同じ高校出身のおじさんで、根暗でお腹が出てて、不幸せな中年を絵に描いたような人で、このままでは俺はあんな大人になってしまうのかとショックを受け、日本を出ようと決心した理由の一つ。しかもその日立製作所 那珂工場は僕がアメリカに留学するちょっと前に閉鎖されて、当時1万人くらいいた社員やバイトの人々の多くは解雇されてしまったのでした。)

警備員として工事現場で立ちんぼ→時々夜勤明けでそのまま日勤に入って寝不足で、道路工事現場でふらついてダンプカーに轢かれそうになったりね。

奥日光にある湯本キャンプ村で夏3ヶ月の住み込み。キャンプ場の運営(掃除とか、会計とか、キャンプファイヤーの設営・片付け+子供向けのエンタメ、ハイキングで迷った人の捜索(しかも夜ばっかり)、直径と深さ3m位のゴミ穴何日もかけて掘ったりなどなど。)

そして、この間、水戸イングリッシュセンターという、水戸駅前にある安くてちょっとだけ胡散臭いところで駅前留学(死語か?)して英会話の勉強をしてましたよ。だって本気でアメリカ行きたかったんだもの。

友達少なかったなぁ、あの頃。マジで貧乏暇なしって感じだった。そして1995年10月21日に、溜まった貯金と親のスネを少しかじってようやく6ヶ月の語学留学にアメリカ南部のミシシッピ州(アメリカで一番学費が安い英語研修所)に旅立ったのでした。めでたし、めでたし。

っとまあ、今日はこのくらいで。

最後まで読んでくれてありがとう!

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