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ちんちん道



『ちんちんで起業する』

とんでもなくアホらしい響きです。
自分でもアホだな〜と思います。

ですが、アホな事で起業するって最高に楽しいじゃないですか!

私は、自分の好きな事、やりたい事で起業するなら、最高にアホで楽しい事で起業したいんです!

でも、きっと皆さん、ちんちんで起業するって言われても意味が分かりませんよね。
今日は、ちんちん道に触れながら、ちんちんで起業するとはどういうことか、について語っていきます。

まずは、私の起業の目的をお伝えしておきますね。

『私はちんちんで世界を変えます。』
 

第一章 ちんちんと私の歴史


私がちんちんを好きになったのは、子どもの頃。
小学生の時には、男子のちんちんがうらやましくて、よく蹴り上げていたものです。
お転婆でもなく、普通の子でした。
でも間違いなくちんちん蹴り上げは一番うまかったです。

中学生の時には、校歌をちんちんの替え歌にして歌って先生に怒られていました。
友達とジャージの上着の裾で突起物を作り、”ちんちん”とやって遊んでいました。
ちんちん見たさに、更衣室を使わず男女一緒に着替えていたら、男子の方が去っていきました。

高校生の頃は、少林寺拳法をやっていましたが、その中で”金的蹴り”という技がありました。
その習得に誰よりも意欲的だったのは私です。
大喜びでコーチに教えてもらいました。
ちんちんの代わりに玉入れの赤玉をぶら下げて練習するのが楽しかったです。

大学生の頃は、サークルの先輩たちがよく裸になって遊んでいたので、ちんちんは身近にありました。
一番印象に残っているのは、女性の先輩の頭にちんちんを乗せて、”ちょんまげ”にする遊びです。
汚いから乗せられたくないな、と私は思いましたが、乗せられてる先輩がちょっと嬉しそうでした。

それ以降、社会人になってからは久しくちんちんと遊ぶ機会はありませんでしたが、夫と出会い、久しぶりにちんちんで遊べるようになりました。

夫のちんちんは、あちこちの女性宅にお邪魔した経験があるので、割と潔癖な私からすると正直言って汚そうだな、と思うのですが、見た目は綺麗です。

ちなみに、「ちんちん痛くなったことないの?」と聞きましたが、本当の事は教えてくれませんでした。

そんな夫のちんちんと遊ぶようになってから、様々な疑問が浮かぶようになってきました。

ちんちん、とても不思議。

その中でも、最も私の心を揺さぶる疑問がこれです。

”障害者でもちんちんこするのはなぜ上手なの?”


第二章 ちんちんがうまくこすれるのはなぜ?


私のお兄ちゃんは障害者です。

一見会話もできるし、1人で出かけたり買い物もできます。
パートタイムで15年ほど仕事もしています。
職場では、おばちゃん達に出来の悪い息子的な感じで、可愛がってもらっています。

でも、多くの人が思い描く、普通の事ができません。

電車でじっと座れない
家でも外でも飛び跳ねる
お釣りを取り忘れる
靴紐が結べない
ごはんの食べこぼしがものすごい
片付けられない
すぐキレる

大した事ないようで、こういう事が毎日起こります。
大した事なくても、毎日毎日、こういう事が頻繁に起こると、周りにいる人のストレス度は高まっていきます。

時々、電車に乗っている姿を遠くからそっと見てみると、お兄ちゃんの周りだけ人が寄り付きません。
常にゴソゴソと落ち着かないのと、床に座ったり、椅子ですごい足の組み方をして座るので、周りの人にすればとても不快で側にいられないんですよね。

子どもの時から電車の乗り方過ごし方は、私と一緒に両親に教えてもらったのになぁ。
なんであなたはそんな感じなんですかねぇ。

そんな感じのお兄ちゃんですが、子どもの頃は5歳までほとんど言葉を発さずにひたすら動き回るだけの状態でした。

今では会話もできるけど、当時はいくら言葉を教えようとも発さず、周りから言われる内容を理解する事も難しかったです。
あまりの暴れっぷりに、幼稚園の他の保護者から退園を迫られるほどでした。

そこからしばらく時は流れ、言葉をツールとして利用する事の便利さに気づいたお兄ちゃんは、言葉を使い始めます。

療育に通ったり、幼稚園に通って、自分の欲望を伝えるには言葉が一番便利だ!という事にようやく気づいたのでしょう。

そしたら次は、椅子に座る練習です。
座ったらお菓子もらえる、おもちゃ出してもらえる、座ったらいいことがあるよ、と何度も何度も繰り返して体験させるのです。

これも学校に行く頃には短時間なら座っていられるようになりました。

高校生の頃になると授業1コマ座ってられるようになり、椅子をギッコンバッタン揺らすだけで我慢できるようになり、休み時間だけ廊下を走る事でコントロールできるようになりました。

このように、普通の人なら、そこまで熱量込めてやらなくてもできるようになる事が、障害者である兄は、あらゆる手を尽くさないとできないわけです。

母が言いました。
私を育ててみて、何も教えなくても、言葉を話すし、じっと座ってるからびっくりした、と。

こうして本人も周りも手を尽くして、一つずつ生きるためのツールを手に入れていくお兄ちゃん。

それなのに、なぜかある事は家族の誰も関与する事なく、難無くできるようになりました。

それが、ちんちんをこする事です。


とても不思議なのですが、ちんちんをこする事は、誰の力も借りず1人で習得していたのです。

これは今にして思えばとても不思議な事です。


ちんちんこするのって、男性に聞いてみたけど、割とテクニックいるんですよ。
射精するのにものすごい細やかな手技、力加減が必要なんですよね。

実は、障害のある人は、うちのお兄ちゃんも含めて不器用な人が多い。
あまり注目されない障害者の多くに確認される特性なのですが、めちゃくちゃ不器用なんです。
靴紐が結べないとか、食べこぼしが多いのはその影響です。

障害者の人ってだらしない感じの人が多いですけど、あれは不器用だからです。
不器用だから、服が汚れたり、シャツが出てたり、食べこぼしたり、そんな事がよく起こります。
身繕いってとても細やかな作業なんです。

そうは言っても、服を着る、食べるなんて作業は、毎日毎日、やってる事でしょ。
でも、うまく出来るようにはならない。
親も家族も支援者も、毎日毎日精一杯教えるんですよ。
それでも、不器用だから平均的な技量まで到達しない事もよくあります。

それなのに、ちんちんこするのだけは、なんでか上手く出来るようになるんですよ。
おかしくないですか?


うちのお兄ちゃんに限って言えば、食べる事が大好きで、食べる事にはよく集中する方ですが、それでも食べこぼしは無くなりません。

1年365日3食、どれだけやってるんだ、と思いますが、もう今以上に上手くなる事はないのでしょう。
机の汚れっぷりが半端ないので、1人だけ常にトレーを引いてもらっています。

それなのに、ちんちんこするのだけはうまくなるんです。

ちんちんこするのは、誰も教えなくても、誰かが付きっきりで練習しなくても、勝手に上手になっていた。

おかしい!

ちんちんこするって、一体なんなんですか?!


この疑問は結構以前からありましたが、母に聞いてもいつの間にか勝手に出来ていたからよく分からない、と言います。


私、本能っていう言葉で片付ける事が好きではなくてですね。
母性本能とかね。

子どもを産めば、自然と母性が芽生えて子育てが出来る、とかそういうの好きじゃないんですよね。

産まなくても子育てが得意な人もいるし、産んでから試行錯誤して努力で子育てする人はいる。
本能で片付けたらダメなんです。

そこにそれぞれのストーリーがある事を知っておきたいんです。

ちんちんこするのも、本能で片付けたくないんです。 

ちんちんこするのは本能的に出来る、っていうなら、お兄ちゃんはあれだけご飯食べるの大好きなのに、なぜ食べる作業がうまくならないのか。

ご飯をこぼさず食べるより、ちんちんこする方が簡単なのでしょうか?

そんな事ないやろ!
ちんちんこする、あの細やかなテクニックの方が絶対難しい!

どうもしっくりきません。

そうやって考えるうちに、気づいてしまったんです。

ちんちんこすりの謎に人間の本質が隠されている事に。


第三章 ちんちんこすりに隠された人間の本質とは


なんかよく分からない事って結構この世には溢れていますが、なぜそれを解明できないのか知ってますか?

思い込みが原因です。

常識とか当たり前とか一般的とか、いろんな表現がありますが、これって全部思い込みです。

その思い込みが厄介なんですよ。

思い込みが目を曇らせるんです。
真実を見えなくさせるんです。


ちんちんこすりの謎に迫るうちに、私が見つけた思い込みは、『障害者は私たちより劣っている存在だ』というものでした。

色々と勉強してきましたよ、私は。
障害者に対する偏見とか、そういうのも向き合ってきました。

でも、やっぱりどうしても障害者は劣っている、という思い込みは打ち消せません。

実際に、お兄ちゃんと共に生活していると、『こんな事もでけへんのか〜』という事だらけです。

共に過ごせば過ごすほど、できない、できない、できない。
劣ってる。

そんな風に感じずにはいられません。

でもよくよく考えてみると、できないって何ができないのか、という話になるんです。


例えば、じっと座っている事ができない。

しかしです。
果たして、なぜじっと座っていなくちゃいけないのでしょうか?

それって誰のためでしょうか。
何のためでしょうか。
なぜじっと座らないといけないのか。

改めて考えてみると、納得いく理由はすぐには思い浮かびません。
どうも、何かここに思い込んでいる事がある気がしてきたのです。

そうして考えるうちに、見えてきました。

世の中には、じっとしていてもらわないと不都合な仕組みが、あらゆる所に張り巡らされているんです。 

例えば、電車という大量の人をスピーディーに均質に運ぶシステムはとても便利です。
ただ、それを利用する人の中に、うちの兄のようにマナーが悪い人間がいると、他の人に非常に不快な気持ちを与えます。
満員電車でアレされたら、本当に不快です。

他にも、集団生活がそうですよね。
30〜40人程度の人数に一斉に同じ内容を伝えたい側にすれば、じっと座って静かにしてくれないとやりにくいですよね。

電車も集団生活も、大量にスピーディーに均質に、つまり能率的に人を扱いたい側からすると、じっと静かにしてくれた方がありがたいのです。

私たちが当たり前だと思い込んでいるこの構造ですが、これは労働力を能率的に得るために仕組まれた構造です。

でも障害者は、この能率的に労働力を得るための構造の中では、うまく機能しない事だらけです。

だから、障害者は劣っているとされます。

劣っているから、出来るだけ普通に近づけないといけない、とされます。

もちろん、今の教育はそういう考え方ではありません。
本人のQOLの向上のために行われます。
大義名分としては。

でも、教育は国の方針に沿って行われます。
能率的に労働力を得たい、物言わぬタックスペイヤーを作りたい国の方針に沿って行われます。

だから私は強烈な疑問を感じる事があります。
 
能率優先の社会構造の一つのコマとして、うまく機能するように、便利に扱いよい人間を作ろうとしているだけではないのか。

そして、私は気づきました。

障害者とされる存在は、この能率優先の社会構造が当たり前だと思ってきた私たちに、ずっと疑問を投げかけてきたのではないか、という事に。

障害者の存在は、この能率性ばかりを追求し続けてきた社会構造の限界を、突きつけてきたのではないか、という事に。


第四章 特別が当たり前になる


障害者が受ける教育は、『特別支援教育』と言います。
障害者は、普通の人とは異なる特別な教育を受ける存在である、と言葉で表現されています。

なぜ特別なのか、というと、非常に個別性が高いからです。

大量にスピーティーに均質を求められる事に従順に従ってきた私たちと違い、障害者はそれに従順ではいないのです。

自分が本当に欲する内容でないと満足しない。
自分の気持ちを曲げないのです。

しかも、障害が重いと評される、つまり能率的な社会構造に適応が難しい人ほど、自分に嘘は決してつきません。

周りがそうやってるから同じようにやるしかない、そんな風に自分の気持ちを誤魔化さないのです。

だから特別支援教育では、とことん個別のカリキュラムが組まれます。
1人のためにオリジナルの課題が作成されます。

目の前の1人の人がどうやったら楽しみながらQOL向上に繋げるのか、それだけを考えられています。
大量の人を相手するには適さない、スピーディーさもない、均質さなんて全く考えない。
そんな非能率的な事を延々とやっています。

障害者は子どもの頃からそうやって個別性の高い、実は非常に質の高い教育を受ける機会があります。

障害者に対する教育を、劣っている者に合わせたレベルの低い教育だと考えられる事もあります。

そう受け取るのも、能率的な社会構造を当然だと思い込まされているから、仕方ありません。

ですがむしろ私は、これは最先端の教育なのだと思うのです。

均質化された内容ではなく、その人のためだけ、その人の力を最大限に活かすために作られる教育の機会を得られる。

これまでも、障害児教育は、万人に対して効果的である、とも言われてきました。

決して〝劣っている〟わけではありません。


私は、あのシステムがいつか当たり前になると思うのです。

大量にスピーディーに均質化された内容に個人が合わせて学ぶのではなく、それぞれが学びたい事やりたい事に合わせて個々に応じたカリキュラムが作られる。

これからはそれが当たり前になります。
特別支援教育が、特別じゃなく、当たり前になる社会になります。


だって、その方が絶対面白いでしょ!

みんな、そんな教育受けたくないですか?

私は長らく、岩熊さんという師匠から、人間理解をベースにした様々な教えを仲間と共に学んでいます。

そのコミュニティには、50人ほどの仲間がいますが、誰一人、同じ事を同じようには学んでいないし、活動していません。

だって、それがもう自分を満足させない事を知っているからです。

私たち均質な価値観で生きる事に疑問を感じた。
だから、ネットで人と違う発信をしてる人を探したんです。

これまで当たり前だと思い込んでいた価値観をぶっ壊してくれる人を探したんですよね。

そうして師匠と出会った。

師匠が提言する、能率的な生き方じゃない、自分にしかできない、マイペースでデコボコでいびつな生き方に憧れて、本気でその道を歩む事を決意したのです。

第五章 ちんちん道


長らく、大量にスピーディーに均質な労働力が求められ、満遍なくいろんな事が平均的にできる人が重宝がられる社会でした。

私たちは、そういう人間である事が正しい、勝ち組として生きていけるのだと思い込んできました。

でも、今みんなそれに違和感を感じ始めていますよね。

少なくとも、私が属するコミュニティのみんな、これまでの価値観から脱却し始めています。

でも、コミュニティのみんなだけじゃない。
気づく人は、確実に増えてきましたよね。

例えば、ネットの中を覗くと、いびつな人でいっぱいです。
これまでの価値観の中なら、頭おかしいって言われるような人がいっぱいです。

でも、みんなめちゃくちゃ面白い。

みんな自分を全力で活かしています。

本当にその人がやりたい事に全力を注げる。

そして、それが循環して相互に与え合える。
誰かのデコが誰かのボコを救う。

そんな社会の方が絶対に面白いって、気づく人は確実に増え始めています。


私たちはもう、平均的に満遍なくいろんな事ができる生き方が、どうしようもなく苦しくなっている。

やりたくない事をやるために、誰かに認められたり褒められる事で、自分の気持ちを繋ぎ止める事にもう、限界を感じています。苦しくなっています。

やりなくない事を努力して出来るようになる事は、私たちの人生に本当に必要な事ですか?

私たちは、本当にやりたい事なら、必死で頑張らなくても習得できます。

誰かが励まさなくても、誰かに認められなくても、本当にやりたい事なら自ずと体が動くのです。

私たちは、誰のために生きていますか?

私たちは、自分のために生きているのです。

私たちは、自分を喜ばせる、楽しませる、自分を幸せにするために生きているのです。

心から自分が望む、魂が震える、そんな経験を全力でするために生きているんです。


これだ。
ここに、ちんちんこすりの秘密がありました。

ちんちんこするのは気持ちいい事である。
喜びであり、楽しみであり。
もっとやりたい。
もっとうまくいきたい。
頑張らなくても、励まされなくても、気持ちいいから何回もやろうと思える。

努力なんてしない。

ただひたすら自分を悦ばせるための行為を重ねる事で習得できる。

誰かに付きっきりで教えられなくても、励まされなくても、自ずと習得できるのです。

ちんちんこすりの謎がようやく解けました。

ちんちんこすりをする時、その瞬間はひたすら自分のために生きる事が出来るのです。


誰のためでもなく、ひたすら自分を悦ばせる瞬間。
だから、ちんちんこすりはなによりもうまく習得できたのです。

ちんちんこすりには、そんな風に、人が生きる事、そのものが集約されていました。

正にここに人間の本質の全てが詰まっていました。


私たちはもう、誰かのために大量にスピーディーに均質な生産性を発揮する、そんな労働者を目指さなくていいんです。

自分のために生きていいのです。

ひたすらに、自分を喜ばせるために、楽しませるために、幸せにするために生きていいのです。

これこそがちんちん道です。


満遍なくいろんな事ができる人間を作る時代は終わりました。

大量にスピーディーに均質にする労働は、遠くない未来にAIにとって変わられます。

その人にしか出来ない事、その人にしか生み出せないもの。
そこに全力を注ぐ時代がやってきました。

ちんちん道はそんな時代の最先端をいく思想です。

ちんちん道は、人間の本来生きる道を指し示す、最先端の思想なのです。

人が生きる。


その本質を最先端の思想で以って追究する。
これこそがちんちん道なのです。


私はちんちんで世界を変えます。

だから、ちんちんで起業します。


2022年3月26日 花畑みつ


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