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チョン・イヒョン『優しい暴力の世界』(斎藤真理子訳)

あたりは静まり返っていた。何も変わりはしない。今日が過ぎて明日が来れば銀行はローンのお金を振り込んでくるだろうし、彼らは不動産登記を終えるだろう。ゴミの山はきれいに消え、彼らはここで生きていくだろう。ジンはぐっと息を止めて、床の上に片足を載せた。

「引き出しの中の家」(チョン・イヒョン『優しい暴力の世界』所収)188頁-189頁

事故物件だと知らずに入居を決められてしまった、ジン。
世の中は「優しい暴力」で溢れかえっている。

「作家のことば」で作者は「今は、親切な優しい表情で傷つけあう人々の時代であるらしい」と述べた。
そんな「優しい暴力」とともに時代は進んでいくのである。
訳者である斎藤真理子氏のあとがきでは、全編を通して「振り返り」がテーマとなっていると述べられた。受けた傷を振り返りながらも進んでいく時間の記録なのである。

私が一番好きな作品、「ミス・チョと僕と亀」ではそんな人間の一生を映す目として「亀」の存在がある。なんだか亀が飼ってみたくなってきた🐢

亀と僕の目が合った。黒い碁石のような瞳がしっとりと濡れている。そのとき初めて僕は、あ、違うんだという予感がした。アルダブラゾウガメは地球上でいちばん長生きする動物なのだった。二百五十五歳まで生きた亀がいるという文献も残っていると、いつだったかミス・チョが言っていた。だったら、僕が死んだ後もこの子は生きるのだ。ゆっくりと命をつないでいくのだ。僕のすべてを目に収め、記憶するのだ。

「ミス・チョと僕と亀」(同作所収 27頁-28頁)


 

<原作>정이현『상냥한 폭력의 시대』(문학과지성사,2016年10月)
<日本語翻訳版>チョン・イヒョン著/斎藤真理子訳『優しい暴力の時代』(河出書房新社,2020年8月)


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