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150人の仲間から離れ、また1から志事を始めた本当の理由

2021年2月、今は無きミライズ英会話六本木校舎にて、独り何時間も座っていた。誰も来ないのにただ独り座っているだけ。思いにふけるのには十分な時間があった。

閉鎖前の六本木校舎



ミライズ英会話六本木校は、2020年3月にオープンしたばかりの校舎だった。2020年3月頃といえば、新型ウイルス「コロナ」が話題になり始め、その翌月には緊急事態宣言が発出され、世の中の行動が制限されたあの時期だった。

我々は、フィリピン現地にて語学学校を経営していたのと、日本にも英会話スクールを構え、六本木校は記念すべき10校舎目となる校舎だった。

外国人が数多く行き交うこの街で、仲の良い経営者や仲間たちがいるこの街での出店。きっと昼は真面目に英語のレッスンをして、その後、夜はお酒でも飲みながら、講師や外国人と一緒に談笑しながら英会話を愉しむ。そんな毎日を想像していた。

オープン時の六本木校舎


現実は本当に厳しいものだった。

オープンしてから1ヶ月も経たずに外出が制限され、集客もままならず、空席だけが目立つ校舎になった。

直ぐにまた世の中が戻ると信じて、私自らビラ配りやチラシを近くのお店に置かせてもらいに走り回った。留学卒業生やセブ島で出会った仲間たちも一緒に配ってくれたり、本当に有り難かったが、毎日配っても一人もお客さんは来ることがなかった。


結局、オープンしてから半年もしない内に、閉鎖を決断しなければならなくなった。

自分が作った城を自らの意思で壊すことを決めるのは本当に辛いものだった。幼い頃に砂場で何時間も掛けて作った城を、知らない子供に一瞬で壊されて、泣きに泣いた記憶があるけれど、今回のは時間もお金も情熱もかけた城を自らの手で壊さなければならない。流石に子供みたいに泣く訳にはいかないけれど、かなり精神的にも辛かった。

実はこの後、あと4回も同じ苦しみを味わうことになるのだけど、神様はそれ以上に辛い試練を、苦難を、泣いても泣いても涙が止まらない出来事を与えてきた。


ガムシャラに働いた20代


「30歳までに起業する」

そんな想いが社会人に成り立ての22歳頃に芽生え始めた。学生時代に新聞を読んだことがなかった私が、社会人たるもの日経新聞を読むべきと教わり、毎日読むようになった。その頃の新聞記事は、「ライブドア」や「楽天」、「サイバーエージェント」と若き起業家たちが世間を賑わしていた。

こんな世の中が有ることすら知らなかった私にとっては、全てがキラキラに見えて「自分もいつかこんな起業家になりたい」と漠然と思った。

新卒では、学生時代に宅地建物主任士(宅建)を取得していた事だけで、不動産会社に就職していた。

そこでは、不動産知識や経験を日々学べるが、それ以外の業界の事は学べなかった。このまま起業しても不動産会社しかできないと思い、色んな業界・業種が学べる所に行きたいと考え投資ファンドに転職した。そこでしっかりとビジネスを学んだ上で起業しようと考え、「20代はガムシャラに働いて、30歳で起業しよう」と決めた。

投資ファンド時代(一番大きいのが私)


20代、本当にガムシャラに働いた。特に投資ファンド時代は激務すぎて、夜中の4時まで働いて、朝8時に出社する毎日だった。

明日の契約書を上司と一緒に製本(am2:00)

全くの余談だが、当時付き合っていた彼女は夜のお店で働く女性だった。
夜職と昼職の人間は生活リズムが合わないから続かないというが、彼女の仕事が終わるのが夜中の1時くらいでも、その時間は自分はオフィスで働いていて、彼女が寝た頃に帰宅してシャワーを浴びて、またオフィスに出社。

そんな毎日をしていたら、「生活リズムが合わない」と見事に言われて振られる始末。当時の自分と付き合えるのは、新聞配達員ぐらいだったでしょうか。(自分が休みの時に向こうが仕事だからダメか笑)


そんな激務な20代だったが、本当に色々な経験をさせていただき、200名ほどの投資先会社の役員などを任され、事業や組織を大いに学ぶことができた。

それまで学んだPLやBSなどの数値分析では図れない人と人との生のコミュニケーションや組織というのものを学べたことが本当に大きかったと思う。


2012年フィリピンセブ島にて創業


そんな20代を送っているとあっという間に29歳になっていた。「30歳までに起業する」のも後一年となり、焦りが出てきた。

色々な業界・業種を経験して、自分に合ったビジネスモデルで起業!と考えていたものの、会社や投資先のためには働けるが、いざ自分でやるのにピンと来ていなかった。そう言うと耳触りはいいが、言い換えれば、自分には何もなかったのだ。

私は、投資ファンド側、いわゆる株主から送り込まれているエージェントであり、私の発言や考えでスタッフや事業が動いているようで、実はそれは他人の褌(ふんどし)で相撲をとっているもので、私が偉いのではなく、株主に権限があって、その権限をただ執行しているだけだった。

改めて自分ができることは"何か"と考えたときに、恥ずかしいぐらい何もなくて、それであればゼロベースで考えてみようと思い、「30歳までに起業する」自分との約束は守ろうと退職届だけは出すことにした。

退職日までに向けて、あれこれ新規事業を考えたが、どれもしっくり来ず、そんな時に「月10万円で3ヶ月で英語がペラペラになれるフィリピン留学」を知ることになった。

経営者になるのであれば英語ぐらい話せるようにならなければと思い、退職日を待たずとしてフィリピン留学に発った。それが10年前の2012年8月。

初めて訪れたフィリピン


フィリピン留学期間中は、1日8時間も英語の勉強が待っており、毎朝の単語テストで8割以上取らないと外出禁止。外出できても門限22時までという厳しいルールがある学生寮のような生活を送っていた。

中学英語からのやり直しの毎日


その制限が逆に良かったのと、周りの学生と違って自分はこれから起業するため、後がない意気込みで来ているので、夜も外出せずにその日学んだことの復習や、極力日本人とは話さず韓国人や外国人生徒とばかり交流していた。

仲良くなった台湾人と韓国人生徒たち


その成果もあってか、2ヶ月間の留学期間では自身の英語力は大きく伸びた。そして何よりフィリピン人の英語教授力、フィリピン留学のビジネスモデル自体に感銘を受けていった。

自分たちのオリジナルな学校を創ったらもっと多くのビジネスマンが訪れるのではないか」と考え、3ヶ月の留学を待たずに、入国して2ヶ月後の10月には会社を設立していた。

それがユナイテッドリグロース株式会社(現ミライズ株式会社)だ。

新卒同期とファンド時代の同僚と三人で創業
小さな小さな看板の前で

まさか自分の人生で海外に住むことも夢にも思わなかったし、初めての起業がフィリピン・セブ島になるなんて全く想像してなかった。

ただ間違いなく、「私の起業人生」の大切な1ページ目がスタートすることになった。


アジアを代表する起業家の一人に


海外からの私の起業人生。

フィリピンにコネも無ければ情報も無く、語学学校を創るにしても何から始めてのいいのか分からず。ただ、何をするにも働く場所や住む場所を見つけなければならないと不動産屋を回った。

3人で創業したものの、みんな前職は辞めており収入もなかったのと、学校を創るのに大きなお金が必要だった。収益も全く見込めず、しばらく極貧生活を送る意気込みで選んだマンションがこちら↓。

3LDKの家具付き高層マンション(リビング)


そう、フィリピンは物価が安かったのだ。

当時の感覚で言ったら、フィリピンの物価は日本の3〜5分の1だっただろうか。1,000円払えば美味しいものが食べれる生活だったし、移動も毎日タクシーだった。家事もお手伝いさんが週7日で来てくれた。お陰で生活には一切困らず、全力で事業に専念できた笑。



セブ島初のコワーキングスペースAJITO

我々が初めに手掛けた事業は、学校ではなくコーワキングスペースだった。

セブ島初のコワーキングスペースAJITO


はじめはお金もなかったが、情報が全くなかった。情報はあっても散らばっており、その情報を一つに集めたいと考え、日本人の起業家が集まるコワーキングスペースを創った。それがAJITO(アジト)だった。

我々と同じように成長するアジアで勝負している起業家たちや、これからチャレンジする若者たちが集まる場としてスタートしたAJITOは、最初は少ない人数だったが、毎月のように著名人を日本から呼んでセミナーや勉強会を開催し、セブ島の日本人ビジネスマンの交流の場ともなった。

毎月開催していたAJITOセミナー



社会人限定のフィリピン留学「オトナ留学MBA」

時同じくして、学校を創るためのカリキュラム作成や講師の採用、学校の許認可に動いており、2013年3月に完成したのが社会人限定のフィリピン留学「オトナ留学MBA」だ。

フィリピン留学の大半が大学生だった当時に、社会人限定にしたのは我々だけだった。創業者3人とも、30歳でフィリピン留学をしたことで人生が変わったこともあり、原体験のある自分たちをペルソナに置くことで、自分たちが本当に欲しい語学学校を創ることに専念ができた。

マーケットが小さい分、集客には相当苦労したが、海外にいながら日本人の集客をしなければならないため、Webのマーケティングは大いに学ぶことができた。というより学ぶしかなかった。(そのお陰もあって、今デジタルマーケティングサービスが提供できている)

日本の帰国の度には、留学セミナーを開催したり、イベントの登壇なども喜んで参加した。

中央の髭が生えているのが私
福岡のイベント
イーストベンチャーさん主催のイベント(全員が著名人に)
海外起業家セミナー登壇


そんな我々の活動を聞きつけてか、創業1年後には「海外で活躍する若者たち」というテーマで、TV取材も受けることになった。それがTBSのNEWS23だった。

創業1年目の節目にNEW23に出演
AJITOで開催したセブ起業セミナー


このTV出演をきっかけに、学生時代の友人や前職の取引先、昔のアルバイトの先輩たちからも連絡が来たりと、多くの人達に我々の活動や事業を知っていただき、それが留学に繋がったり、セブ島を知るきっかけになって初めて観光する人たちも増えていった。


その影響もあり、多くのメディアでも取材いただき、アジアを代表する起業家の一人として、注目していただいた。


ASEANで働く情報メディアの取材
another life
リクナビNEXT


身体がどんどん大きくなっているのも気になるところだが笑、会社もどんどん大きくなっていった。


フィリピンセブ島、新校舎前にて
毎年開催していたアニバーサリーパーティ(周年祝い)


フィリピン講師やスタッフも合わせると100名を超え、名実共にフィリピン・セブ島では無くてはならない会社にまで成長することができた。


日本への逆輸入「フィリピン人特化の英会話スクール」


我々のような100名規模の語学学校は、セブ島では中規模に位置し、大きい所では300名や全キャンパス合わせると1,000名規模の学校もあった。

そんな市場の中で、我々も規模の大きさを目指していくのか経営陣で徹底して議論したところ、フィリピン留学のパイの取り合いではなく、マーケット自体を大きくしようと考えた。フィリピン講師の英語教授力をもっと身近に感じられるように、講師陣を日本に連れて来て、日本でフィリピン留学を体験してもらおうと動いた。

というのが表向きだが、純粋にフィリピン講師たちが毎日のように日本人生徒と授業をしている中で、「日本に行ってみたい」「日本で働きたい」という想いが強くなっていき、ではその夢を叶えてあげようではないかと展開したのが日本進出だった。

この日本進出は、予想を遥かに上回る反響を呼び、まずこれまで留学してくれていた卒業生たちが、講師たちに会いに来てくれて入会までしてくれたのだ。それが何人とかではなく、何十人、何百人と。「ずっと待っていたんだ」と言わんばかりに毎日のように誰かが来てくれた。

改めてフィリピン講師たちのホスピタリティと英語教授力に感服した。


日本で開催したクリスマスパーティー


我々は、第1校舎となる渋谷校を皮切りに、福岡・東京駅八重洲・新宿西・新宿三丁目・池袋・上野・横浜・銀座・六本木と計10校舎の出店を行っていった。

日本英会話スクールの講師陣



いずれもセブ島の人気講師を送り出すことで、高いクオリティを維持し、日本に配属されたと同時に、卒業生や口コミによって既に生徒が付いている状態でスタートする最高の形が出来上がっていた。


さらにセブ島側では、次こそは自分が日本行きのチケットを手にしたいと、現状に満足せずに自ら学んだり、生徒の満足度を一番に考える講師が増えていった。最高のスパイラルが回っていた。

日本行きのメンバー発表


時は2019年。
いよいよ来年、待ちに待った2020年東京オリンピック
それに向けた英語ブームに乗って、我々の目標は株式上場だった。

株式上場が目的ではなく、フィリピン講師の英語教授力を世に知らしめるのに一番手っ取り早い手段が上場だった。

岡山経営者会の講演にて
フィリピン講師たちと日本の英語教育を変える


上場に必要な監査法人、証券会社と話を進めていく中で訪れたのが、2020年3月に世界中を襲った新型ウィルス「コロナ」だった。



生き残るための苦渋の決断


音を立てて崩れていく瞬間を毎日見ていた。

我々の事業の柱は2つだった。
1つが、フィリピン留学
もう1つが、日本英会話スクール

まず3月の時点で海外への渡航が全てストップされた。

留学には誰も行けず、当時留学していた生徒たちも強制的に帰国しなければならない状態になった。人命優先で、生徒の帰国を慎重に行っていくと同時に待っていたのが、次月以降で予定した生徒の留学金の返金対応だった。

留学金は前払いが基本であり、前受金でも相当の金額があった。快く待ってくれるお客様もいれば、謝罪よりも返金を求めるお客様と、全てに真摯に対応していった。

1つの翼が折れた瞬間だった。

会社のお金の流れを全て把握している自分にとっては、毎日が本当に恐ろしかった。ネットバンクのサイトをリロードする度に、鳴ってもないのにカタンっと鳴ってデジタル上の数字が減っていくあの瞬間。


そして、次に待っていたのが、日本における緊急事態宣言だった。
そんな言葉、初めて聞いたが本当に恐ろしい宣言だった。

不要不急の外出禁止。実質、外出不可の世の中になった。英会話スクールに英語を学んでいるところではなかった。

もう一つの翼も折れた。


この騒動も1ヶ月程度で終わる。いや終わって欲しいと願うことしかできなかったが、既に留学返金対応やキャッシュフローが厳しくなっており、悠長なことは言ってられない状態だったため、考えるよりも行動をしていた。

それは資金繰りに走ることだった。

全金融機関と逐一連絡を取り合い、時には出向いてまで状況の説明をした。当時、政府からの助成金や補助金の制度が発令されれば、色んな情報が飛び交い、どれが真実かも分からなくなり、直接役所にも走っていた。オフィスの郵便物も見に行かなければならず、誰もいない電車に乗り、誰もいない道路を歩き、誰も居ないオフィスで一人「本当に大丈夫なのか」と毎日、自問自答していた。

本社前の道路(桜の季節に雪が降っていた)


先行き不透明すぎる事業計画を持って、我々の状況を分かってもらうために目一杯説明して、相当の覚悟も示していった。そのお陰もあってか当時の会社規模では考えられない金額の融資をいただき、向こう何年かの存続は確保することができた。


ただし、あくまで借りたお金であり、猶予期間があるもののしっかり返していかなければならないお金であり、次に我々がやるべきことは、毎月の出血(赤字)を止めることだった。



我々のビジネスで大きいコストは、人件費と地代家賃だった。


人件費については、雇用調整助成金を活用して、スタッフや講師は必要最低限にし、残りは休業という手段を取って、かなり低く抑えることができた。

次に地代家賃だったが、これはかなり難航した。校舎数がいくつもあったので、全てのオーナーに家賃交渉の直談判しに私自ら行った。校舎によっては会ってもくれないオーナーもいたり、二つ返事で支払い免除をしてくれたオーナーもいた。本当に有り難かった。

その他にもありとあらゆる費用は削っていった。毎日のように経営陣と一緒に費用を全部リストアップして、削っていく行為は本当に胃が痛かった。


その過程で、冒頭で説明した校舎の撤退だった。

毎週のように収益やKPIのボーダーラインを決め、それを下回るなら撤退、上回るなら継続と審査していった。結局、当時9校舎あった拠点は、4拠点まで閉鎖することになった。最後まで反対する意見もあったが、苦渋の決断だった。


いつ世の中が戻るのか分からない毎日に不安と恐怖があったけれど、不思議とプツンと緊張の糸が切れることは全くなかった。立場的に明るく振る舞わないといけないのもあるが、何より、共同経営者である2人がいたことの影響は大きかった。

セブ島と日本を繋いで毎日議論した経営会議


きっと私一人では決めることが出来なかった決断ばかりだった。それほど自分達の城を自分達で壊すことがどれほど精神的にやられるか。ただそんな決断も共同経営者の2人がいるから出来たことであり、2人が売上を上げてくれるなら私が費用を抑えて利益を捻出することが、使命と自らの役割に専念できた。本当に代えがたい存在だった。


止まった2人の命


やっとタイトルの「150人の仲間から離れ、また1から志事を始めた本当の理由」の本題に入るが、(ここまで読んで頂いた方、本当に有難うございます。またここから長いです。)

そんな最高の経営陣と最高のフィリピン講師陣、日本人スタッフ達に囲まれ、試練はあったものの、徐々に収益も改善されてきたタイミングでの離脱には、ある2人の命が関係していた。


普段のセミナーや講演会では決して語ることのない、私自身も胸に閉まっている出来事だが、改めて自分の今の気持ちの整理も含めて書き起こしたい。


1人目の命は、2020年1月、世の中がコロナになる前の出来事だが、日本の上野校で働いていたフィリピン講師が癌で亡くなった。

23歳の若さだった。

2019年12月に末期の胃癌と判明し、余命半年と宣告を受けた彼女は、最後は母国フィリピンで過ごしたいと言い、年明けに帰国。その後わずか2週間で息を引き取った。

最後に日本の病室で会った時も笑顔で話してくれた


宣告を受けた後の彼女に会った時に、なんて言葉をかけていいか分からず、ただ泣くことしかできず、その涙も何のための涙なのか分からず。23歳という若すぎる彼女が死と向き合っている姿を見て、ただ涙が止まらなかった。自分の無力さをただ感じるしかなかった。

講師たちが作ってくれた思い出アルバム


「早く元気になって生徒と授業がしたい」という彼女に、改めて"生きる"とは、"死"とは、そして"働く"とはを考えさせられた。


そして、時無くして世界がコロナに見舞われた。

この時は、会社の存続ももちろん重要だったが、コロナ感染による重症患者や死者に対して、過剰なまでに敏感だった。それは彼女の命がきっかけではあるものの、二度と同じ悲しみは誰にもあわせたくないという想いが強かった。


前述のとおり、一心不乱に会社の存続、人命大事に動いており、正直いつ何をしたか定かではないけど、順調な方向に進んでいたのは確かだった。


そんな時に起きたのが、もう1人の命だった。


未曾有の2020年が終わろうとしていた11月頃、セブ島校舎の日本人スタッフのセブ島現地での死だった。

最近セブ島でバイクを買った彼が楽しそうにストーリーに上げているのを見て、前日にメッセージをやり取りしていたスタッフの訃報。

セブ島の仲間たちが盛大に見送ってくれた


いつもなら直ぐに飛行機で飛んでいくのに、渡航制限もあり、日本で何もできない自分。セブ島の仲間たちに見送られ、遺体となって帰ってきた彼と、彼の地元である北海道釧路市でご家族と共に再会したのは1ヶ月も後だった。


この時も一生分の涙が出た。もう彼と話せない涙なのか、遺族の方々を想っての涙なのか、正直全く分からなくなったけど、ずっと涙が出ていた。


人間にはいつか必ず死が訪れることを改めて知り、それが突然起きるかもしれない。それが自分かもしれないし、自分の身近な人かもしれない。当たり前に生きている日常がある日突然無くなるかもしれない。

それを自分に知らしめるには十分すぎるほどの出来事が2020年に起こった。


命=時間は有限である。



気持ちを新たに迎えた2021年


暦とは古来からある人類が作った便利な区切りであり、辛かった2020年も1日経つだけで、心新たに切り替えられるタイミングでもあった。

もちろん一生忘れることができないけれど、この経験を糧に何か私ができることを愚直にやるまでと思うようになった。とは言え、目の前の仕事や会社を経営しなければならないため、何か大きなことを直ぐにできるかと言えば、結局いつもと変わらない毎日を過ごし始めてしまうのが常である。


ただ、唯一変わった点としては、私は本を読む習慣を持つことにした。

今では私のことを知っている周りは、私を本好きな人と思われているかもしれないが、本を読むようになったのは実はここ1~2年の話だった。


これまで毎月のように海外に行き来して、常に人と会っていた私が、コロナのお陰で外出制限も掛かり、プライベートの時間がぽっかり空いたこともあって、その時間を全て読書の時間に充ててみた。

ここからが劇的に私の考え方、と言うより人生が変わったのかもしれない。2020年の出来事がきっかけか、オーバーかもしれないが本1冊を読むにしてもその文字、センテンス、ページ一つ一つに著者の魂を感じられるようになった。

この場面で、この言葉を使っているのにはこんな理由があってなのかと、自分が著者になった気持ちを読み取ることで、これまで大して好きではなかった読書がどんどん好きになっていった。


当時読んでいた本の中での心の変化やおすすめ本については、以前エントリーしたこちらの記事をご覧ください。

成功したい、金持ちになりたいあなたへ。本を年間365冊読んで分かった私の答え


その中でも触れているが、色々な本の影響を受けた中で特に自分の考えがより解像度が上がったのが、こちらの「やりたいこと」の見つけ方 八木仁平著 だった。

「やりたいこと」の見つけ方


ここには、「本当にやりたいこと」とは、あなた自身の、①好きなこと、②得意なこと、③大事にしていること、この3つが重なり合っている部分を指していると定義されていた。

そして、それぞれを導くために各30個の質問が用意されており、それを一つ一つ答えいくことで、「本当にやりたいこと」を理解していく設計だった。

これを私は3ヶ月以上掛けて、質問に答えていった。全100個弱の質問を1日で答える日もあれば、毎日5個づつ答える。いずれも同じ質問のはずなのに、答えるテンションや時間帯によっても全く異なっていくことに面白みを感じていた。

ただ、必ず共通していることがあった。


それは私自身、誰かのためにすることが最大の力を発揮することが分かった。

それが、①好きなことでもあり、②得意なことでもあり、何より③大事にしていることだったのだと。


実は、フィリピン留学も私自身がやりたいから設立したのではなく、共同経営者の中で、学校を創りたいという想いが強くあり、それを実現するために私は全力を出していた。

日本進出もフィリピン講師が「日本で働きたい」、そんな想いを叶えてあげたいと本気で思ったから日本展開を加速させていった。

振り返ると私がやりたことをやるというよりは、身近な誰かがやりたいことを私が全力でサポートすることが、私のやりたいことなんだと理解できた。


逆に捉えると、誰かがやりたくないことを無理にやらせることが出来ないことも分かった。例えばセールスの電話や訪問販売など。(その業界の人が読まれていたらすみません。あくまで私が苦手なだけなのです)


英語学習に関しても、念願の東京オリンピックもあのような結果となって、外国人の行き来もなくなり、当時は周りも英語学習意欲が落ちている中で、会社としては存続のために生徒を離脱させないように対処していく戦略や、学習意欲がない人にも火を付けることが必要だったりと、私のやりたいことと若干のズレが生じていたのは確かだった。

もちろん英語を学びたい人にはWelcomeで、それはそれで叶えるのが私の仕事と考えていたが、圧倒的に母数が減っている時期でもあった。


そんな中、本で読んだことや学んだことを周りの求めている人に発信するようにしたり、周りに困っている人がいたら積極的に助ける行動を起こしてみた。

具体的には、私自身の得意領域は、ファイナンスやマーケティングなのだけど、それらに困っている経営者や仲間がいたら、何も考えずに手伝うようになっていった。それが仕事に繋がることもあれば、ただアドバイスしただけで終わることもあった。

ただ、私自身、それをやっているときが一番楽しくて、一番やりがいがあることに気づいた。


AIBOU(アイボウ)という生き方


経営者でありながら、誰かの想いを実現するサポートをしたい。ある種、No.2的な存在がピッタリ合うのが私らしさと気づけたのだった。

それは業界問わず、課題問わずだった。

私自身が知らない知識や経験が問われることがあったとしても、3日間、時間をもらえればありとあらゆる本や情報を入手して学び、3日後にはその辺のコンサルタントよりも知識を持つ事ができる特殊能力を持っているのだと気付いた。

これが私の生きる道ではないかと分かったなら、時間は有限である。ことを知っている私は、共同経営者に打ち明けることにした。

ミライズ社はいい意味でも悪い意味でも、フィリピン講師という資産を多分に持っている英会話の会社であった。そこに私のやりたいコンサルタント領域の事業を盛り込むことは、会社にも混乱を招くし、そこに会社のお金を使うわけにもいかなかった。

私の想いやこれまでの気持ちの変化を伝えた所、共同経営者2人とも「応援する」の一言だったのが本当に有り難かった。

創業時メンバーが集まってくれた送別会


正直、自分たちの城を自分の意思で壊さないにしても、手放すことには辛いところもあったけれど、それよりも限られた時間の中で自分の意思に真っ直ぐに生きることの方が大事と、2人の命を通じて教わったのだった。


こうして立ち上げたのが、株式会社アイボウだ。


経営者の課題に対して、本気で向き合って、本気で支援していく、同じ目線で、上下もない、ビジネスパートナーとしての「相棒」になれる存在でいること。

アイボウ社の社是は共創だ。

私自身がこれまでの経営人生の中で、辛い辛い経験の中でも立ち続けられた のは共同経営者のお陰でもあった。そんな経営者の支えになれる存在でいること、それが私のやりたいことなのだと。


最後に


ここまで読んでいただき、誠にありがとうございます。
最後まで読まないと私の本当の理由が分からない設計になっていることをお許しください。


お陰様でアイボウ社は、設立して1年以上経ちますが、多くの企業様とお付き合いさせていただき、事業を続けられています。メンバーも150人とは程遠いですが、同じAIBOU魂を持ったスタッフ達や外部パートナーに囲まれて、毎日を志事で彩っています。

メイン事業は、経営コンサルタント業になりますが、CxOシェアリング事業クリエイティブ事業インドネシア人材事業、最近では経営者向けの入浴剤まで開発・販売などもしています。


いずれも誰かがやりたいと言った想いを形にして世に出すのが得意科目でもあり、純粋に取り組んで来ました。きっと今後も同じようにどんなことにもそれが誰かのためになるなら、果敢にチャレンジして参ります。


そんなアイボウ社や私に少しでも興味を持って頂いたら、本記事をシェアや感想をSNSコメントに頂けると大変励みになります。


これからもどうぞよろしくお願いいたします。

株式会社アイボウ
代表取締役 鈴木光貴


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