AIでのアート制作は、人の意志を薄くし個性を最大化する

ひさびさの投稿ですが、ブログの趣旨とは関係ないAIとアートの話です。

AIアートをどう扱うかの議論が活発になっています。
著作権的な話題も大きいですが今は一旦置いておきます。アート性についての話についての議論については、その核心は結局のところ、その作品に対してどこまで人間の意志が含まれているのか、という問題なのではないかと思います。

おそらく、これまでのどんな技術革新でも似たような議論が出てきたのでないかと想像しています。
例えば画材が天然材料から化学合成した材料に変わった時。音楽でいうと手作りの楽器だけの時代から電子楽器が登場した時。アニメで言うとアナログ作画からデジタル作画に変わった時。
技術革新が起こる度に一つの作品の制作に関わる人の数は減り、その度に作品の「人のぬくもり」みたいな議論が出てきたんじゃないかなと思います。
それはただの時代遅れな意見というわけではないと思います。実際に関わる人の数が減っているわけで、そう考えると一つの作品に対する人間の「意志」の濃さが薄くなるという感覚は分かります。

ただ、それと同時に技術革新は1人の人間が作り上げることのできる作品の大きさを引き上げてきたとも言えます。
そう考えると、技術革新の歴史によって人の作り出すアートは「小さく意志の濃い作品」から「大きく意志の薄い作品」に変化してきているのかもしれません。

アートの作成には「意志」という軸とは別に、「個性」という軸もあると思います。

人間の多く関わる作品は細部まで人の意志が届いていてとても濃い体験ができますが、関わる人数が多い分、強烈な一個人の個性を作品に込めるのは難しくなるのでは?と思います。

新しい技術を使った作品づくりはどうしても末端の細部まで人間の意志が届きにくいと思うが、少ない人数で大きな作品を作り上げることができるので、関わる人数が少ない分個性の尖ったピーキーなものができやすいのではと思う。その尖り方は1人で作り上げることができる小説の様に、作者の私的な感情が色濃く凝縮したものになりやすいのではないかと思います。
もちろん絵や音楽はAI以前でも1人で作れるくらいの技術的な環境はあったと思うけど、AIによってそれまで大人数でしか作れなかったアニメやゲーム、映画なども、より個人的で個性が凝縮したものができやすい環境になるのではと推測しています。

とはいえ、絵とか音楽とか、そもそも1人で作れる範囲のものにAIを持ち込むと、ただただ人の意志の薄い手抜きなものになりやすいのかなと思います。AIを持ち込むことで緻密さを増す方向にいくなら面白い作品も生まれそうではありますが、どうなるでしょうか。

結論はタイトルの通りですが、多くの人間の力・意志がこもった作品と、1人の人間の強烈な個性がにおう作品、どちらが上という事ではないと思います。
おれ個人としては音楽でもゲームでも個性の尖ったピーキーな作品が好きなので、AIが人の制作をどう変えるのかについてはちょっと楽しみな気持ちもありますが、同時にノイズの様な雑な作品も増大すると思うと鬱陶しくもなります。とはいえ、素晴らしい作品というのは広い裾野をもつ山の頂点にあると思うので、裾野が広がり山を高くするというところにもAIは役割を果たすのかもしれませんね。

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