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母と私と私たちの介護記録。vol.2

さて、前回は母(おかん)の出生から、父(おとん)と出会い、私と姉が生まれるまでを書きました。
この時は、この先、普通の生活があって、私も姉も普通に進学していって、就職なんかしちゃったりするんだろうな。と思ってました。
今日は、病気の発覚までを書ければ良いかな。と思います。

・全ての前兆

その日は、私と姉、おとんが家に居ました。
私が小学2年生、秋の日曜日です。
その日は、おかんの務める小学校の運動会。
昼過ぎに、電話がかかってきて、おとんが出て
「お母さん、病院に運ばれたらしいから、2人で留守番しといてな。」
と言われました。なんでも、大玉運び(複数が密集した列の上に大玉が乗せられて、皆の手で列の最後尾まで運んでいく競技)で、生徒が倒れてきて、おかんが下敷きになり、生徒は無事だったけれど、おかんは足をひねったか何かで立てなくなった。

とのことでした。
正直に言えば、生徒に非はありません。
ですが、子供ながらに。
おかんに何けがさしてくれてんねん。
くらいは思ってました。

家に帰ってきたおかんは、車椅子で
骨折。との診断でした。
まあ、骨折なら、しばらくすれば治るだろう。と、私を含めた家族全員がそう思っていたはずです。

・いくら経っても治らない

あの運動会から1年が経ちました。
おかんはリハビリを頑張り、車椅子から松葉杖に、松葉杖から、普通の杖をついて歩けるようになりました。
しかし、その杖が無いと、やはり上手く歩けないというか、転けてしまう不安があるらしく、どこへ行くにも杖をついて歩いていました。

それは、私が思春期真っ只中の、小学高学年まで続き
「周りに杖をついてる親なんていないから、恥ずかしいから、参観日には来ないで」と言ったこともあります。
今思えば、あの時にしか一緒に自由にどこでも行ける時なんてなかったのに…と後悔しています。
でも、おかんは参観日には必ず来ていました。
教室には入らず、廊下のかげからこっそりと見ているのを私はちゃんと見ていて、そして帰ったら
「なんで来てたの?恥ずかしい!」と怒りました。

余談ですが、おかんが小学校の教師だと、ふしぎなことに、私の周りの先生が、たいてい、おかんの知り合いになる現象が起きました。

5〜6年生の担任は、おかんのI小学校での同僚(年下)
音楽の専門の先生は、おかんのT小学校での同僚(年下)
理科の専門の先生は、おかんの上司的な存在で、私がまだ赤ん坊の時に家に来ているとか…。

私の小学生生活は、そんな「おかんの知り合い」ばかりだったので、とても荒んでいました。

・いじめられた休職時代

話は少し前後しますが、私が小学3〜4年のころ、
おかんは、休職していました。
やはり、職場でも杖をついていることを、からかわれたりしたとか、いつまでも治らない足に不安を感じている。とかでしょう。

これまで、学校は行かなくてはいけない場所
と認識していたところに、おかんが学校を休んでいる。
あ、学校って行かなくても良いんだ。
元々学校が嫌いだった私は、早々に不登校になり、気が向いたら行く。4時間目からね。みたいな、社長出勤になっていました。

この不登校癖は治ることはなく、高学年でも、休むことは無くても、遅刻ばかりする子として認識されていました。
これは、後々、私の人生が不登校で塗りつぶされる前兆だったのでしょう。

・復職、真夏にスキーウェアで三輪車通勤

私が6年生になったころには、おかんも転勤して、復職していました。
相変わらず杖はついているし、
普通の自転車だと、何度も転倒してしまうらしく、
前に一輪、後に二輪の三輪車で通勤していました。

これも、また私の癇に障りました。
そんな、おばあさんみたいなので通勤して恥ずかしくないの?と。
それでも、原付の免許しか持っておらず、しかもペーパードライバーなおかんには、これしか方法がなかったのです。

そして、常に「寒い」と言って
真夏でもスキーウェアを着るようになりました。
見ている分には、とても一緒に買い物なんて行きたいとは思いません。
思春期の私には、恥ずかしさが勝っていたのです。

なので、母との買い物やお出かけの思い出は、
全て、小学2年生より前になります。
この頃がラストチャンスなのに、思春期の私が拒んだから、一緒にどこかへ行く。ということは、
この後、1度だけとなりました。

・退職、隠された病名

姉は母の言うことに忠実だったので、中学受験をして、私立の中学に通っていました。
私も中学受験をと塾に通っていましたが、高学年時代に、友達と遊ぶことが何より楽しくて、
塾を辞める!と、大喧嘩して、塾を辞めて
友達と一緒の公立の中学校へ進学しました。

その頃には、おかんはもう退職を決めて、
セカンドオピニオンをしていたそうです。
私は、部活を間違った選び方をしてしまい、上下関係の厳しい部活に入部してしまいました。

(体験入部を、色んな部活を体験する。というより、この部活を毎日体験しとかないと、「入らないの?」という圧力がかかってしまうのではないかと思って、体験入部の期間全てを、その部活にそそぎました)

とにかく、朝練で走る走る。
その後の筋トレ。
授業を受けて、また部活では走る走る。
筋トレ、声出し、筋トレ。
一日でも休んだら追いつけなくなるのではと思うくらいでした。
なので、私は毎日学校に行きました。

そんな私を見て、家族は
「今は、みつるには何も言わないでおこう。」と思ったそうなのです。
しかし、あきらかに様子がおかしい。
これは、姉かおとんからか、どちらから聞いたかは覚えていないのですが
「どうやら、おかんは難病で余命宣告もあるらしい」とのことでした。
詳しく教えられていない分、不安は募りますが、
私は私の生活で精一杯でした。
部活、授業、体罰をする担任、先輩への挨拶。

・病名告知と先生の裏切り、不登校へ逆戻り

5月か6月ごろでしょうか、担任と生徒の
二者面談がありました。
そこで、私は担任に、誰にも言わないでほしい。
と言った上で「おかんが難病らしく、余命宣告もあるらしいけど、私には隠してる」と悩みを打ち明けました。
その時、担任はどう返したのか、
もう忘れました。適当な励ましだった気がします。

そして、夏休みも過ぎ、何とか学校も通えていた日
おとんから「明日の午後、おばあちゃん達も一緒に、お母さんの病気について、お医者さんから話があるから、学校からこの駅まで来てな」

ついに来たか。と思い、一応
生徒手帳にも一筆書いてもらい、
私は、その日の午後、早退しました。

その日は文化祭も間近に迫った日で
1年生は展示物の製作でした。
先生の案で、折り鶴で絵の製作。が
私のクラスの展示物になり、皆折り鶴を折っていました。

これは、友達づてに聞いた話ですが、
ある男子学生が「みつるってヲタクやんな〜」と話していたそうです。
私も、その男子学生とは、それなりに親しくヲタク話を繰り広げていたので、何もおかしい会話ではありません。
ですが、私の居ないところで、私の悪口を言っていると勘違いしたのか

「みつるさんは、お母さんが難病で大変なのよ!」

と、廊下まで聞こえる声で担任が怒鳴ったそうです。

一方、電車に長く揺られ、すさまじい坂を登り
現れた山の中の病院。
私は、久しぶりの親族の集まりに、嬉しさと、緊張が入り混じった気持ちでした。
何せ、おかんは、おとんの母とは、あまり仲が良くありません。

さり気なく、私がおかんをガードする形で
おかんの隣に座りました。
その時、おかんはもう自力では歩けなかったのです。

ALS、余命は3〜5年です。
筋萎縮性側索硬化症と言い、
運動神経が死んでいき、感覚神経は残る。
しかし、肺などの呼吸器系を動かしている運動神経が死んでいくと、喉を切開して、呼吸器をつけなければ、呼吸ができなくなり、死んでしまいます。

私には難しい言葉の羅列の中に
余命3〜5年。という単語だけ聞こえて。
そして、机の上に置かれたおかんの手が
ずっと震えていた
ことが、目に焼き付いています。

告知を終えて、今後の母の介護の話になった時、
ヘルパーさんには入ってもらうけど、
できるうちは、家族が介護をして下さいと言われ、
まだ中学1年生の私は、嫌でした。
でも、婦長さんに
「5歳の子供でも介護してるのよ。あなたたちがやらなくてどうするの?」と言われ

その5歳の子と、私と姉に求める介護の大きさは違うんでしょうね!と思いながら。
とにかくあと5年で、おかんが死んでしまう。と思い
まずは、自宅のバリアフリー化から。ということで
ある程度のことが終わるまで、私はおかん側の祖父母宅に避難することになりました。

そして、疲れ切って帰宅すると、友達から
「今日、みつるがいない間に、先生マジギレやったで」とことの顛末を聞き。
先生…。言わないでって言ったじゃん。となり
次の日学校に行くと、話したこともない子から
「みつるさん、困ったことがあったら、何でも相談にのるからね」と呼び出しを受けて。
駄目だこりゃ。もう、部活もしんどいし、
全部おかんのせいにして、学校、休んでやれ。
その日の部活で、先輩におかんの病気と余命、介護のことを言い、休部扱いになりました。
私的には退部が良かったのですが、
仲良くなった同期の子とは離れなくないし…という
なんとも傲慢な考えで、居座り続けることになりました。

・今日のまとめ

長くなりましたが、
私がおかんの病気を理由に
不登校を謳歌する
という、とんでも展開でした。

しかし、この不登校も辛い不登校です。
知らない人(ヘルパーさん)が家に来て
ゴタゴタと介護をして、帰っていく。

深夜に、トイレに行きたいと言うおかんに
怒鳴るおとん。(介護拒否)
耐えきれず、姉が出て行って対応。
私は何もしない。
私はできないことは最初からやらない主義なので、
おかんをトイレに連れて行くことができないなら、
最初から手を出さない。をモットーにしていました。

次回は、バリアフリー化がまさかの不良工事
再工事。
おとんのパーソナルスペースがなくなる。
キーパーソンが姉になる?!

まで書ければ…少し長いので、分割するかもしれませんが、よろしくお願いします。

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