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母と私と私たちの介護記録。vol.3

はい、この介護記録も3回目になりましたが、
なにぶん、10年くらい前から…さらに遡っての記憶なので、曖昧なところが多いのですが、
所々、修正して書いていこうと思いますので、よろしくお願いします。

・バリアフリー化の工事がテキトーすぎる。

おかんを家で介護するにあたって、
まずは、家の改装工事がはじまりました。
和室を無くし、3LDKだった家を2LDKにするため、壁をぶち壊します。

おかんの夜の介護がしやすいようにと、
おとんとおかんは、和室と、洋室だったところをぶち抜いた、広い部屋に一緒に過ごすことになるのです。
もちろん、おかんは介護ベッドなので、夫婦で一緒に寝る……。なんてことは起きませんでしたが。

私は、壁は天井を支える役割をもってるから、
ぶち抜いたら、天井が落ちてくるんじゃないの?
と、子供心に思っていましたが、
そこらのマンションでは、壁のひとつやふたつ
ぶち抜いても、どうってことありません。

ガンガン壊されて行く我が家。
私は基本的に母方の祖父母宅に不登校なので、居ましたが、独特の雰囲気のおじさん達が、こうも自分の家に入っては、壊していく。というのは、少し複雑な気持ちでした。

当時は、まだバリアフリー化のためのリノベーションなんてのが浸透していなくて、
私の家が、私のマンションで初めてリフォームをする家。になったので、上の階に住む人が、どんなの?と見に来てたよ。と姉から聞いた時は、やっぱりうるさいし、迷惑なんだ。
おかんのせいで。と思っていましたね。

さて、リフォームも終わりになってきて、完成です!となり家具を戻すだけ…となった時、
おかんが「ねえ、おかしくない?」と言いました。
リビングと和室と洋室だった部屋を繋ぐ天井の部分が……。だるんとしている……。

私と元おとんの部屋は姉の部屋になることなったのですが、そこもカーペットだったのを、ついでだからとフローリングにしたら、隙間が空いている。壁との間にコンクリートの床が見える……。

これでは、お金は払えないわ!
正しさを貫き通すおかん爆発。
何とかテレビや新聞を使って、
バリアフリーをメインにしている大工さんを呼び寄せて、検証してもらいました。

すると、手抜き工事だったことが発覚。

おかんは、かんかんに怒り、おじさん工事屋の代表と、バリアフリー専門大工さんとおかんで
話し合いが起こり、お金はどう支払ったのか、私は聞いていませんが、バリアフリー専門の大工さんが、さまざまな手抜きを指摘して、ほぼ、手抜きの工事屋さんにはお金はいかず、バリアフリー専門大工さんが、手抜き工事をなんとか、住めるように戻す。という流れになりました。

当時、これ以上工事が続くのが嫌だった私は、
とにかく、その当時見ていたアニメの録画だけはできるように。を条件として、何とか工事の継続に納得しました。
今でも、コンクリートとフローリングの間で見た
機動戦士ガンダムseedの再放送は覚えています。

ちょうど、ムウさんが亡くなる回でした。
もう、工事の人とか、おとんが側にいても
関係なく、ムウさんの最期に涙したのを覚えています。

・おとんのパーソナルスペースが無い

バリアフリー専門大工さんの手によって、
何とか形になった我が家。
和室が無くなったのは寂しいけど、仕方ありません。
それよりも、やっと私の自分だけの部屋を持てた嬉しさが強かったです。

ただ、おとんは自分の部屋がなくなり
おかんから常に見えるところ、
つまり、他人であるヘルパーさんから常に見える所で、仕事をし、寝て、おかんが夜起こせば介護をしなければなりませんでした。

いつの間にか、段ボールに詰められた、おとんの私物は、おかんの介護ベッドとおとんのスペースを区切るタワーになり、
おとんは、仕事から帰るなり、すぐにヘッドホンをつけて、介護を放棄するようになっていきました。

ほんの、3〜5年だけ。
そう思ったのでしょう。
その3〜5年に、どれだけおかんのワガママ(と言ったは、おかんは怒るので、こだわり。と言っておきます)があったことか……。

・夜中の怒鳴り声

おかんは、介護用のトイレではなく
ちゃんとした、健常者用のトイレを希望しました。
そうでないと、うまく出ない。と。
入院の経験がある方は、おわかりかと思いますが、普段からトイレでしていることを、
いざ、オムツがありますから、大丈夫です!と言われても、中々できないのが人間です。

おかんは夜中に、おとんを起こし、ベッドからシャワーチェア(浴室でも使うのですが、小回りがきくので、家の中での移動はこのシャワーチェアでした)
に移動して、トイレまで行き、自力では立てないので、はがいじめ状態で、トイレに付けられた手すりをおかんが持って、なんとか立っている間に、ズボンを下ろして、またはがいじめにして、便座に下ろしていました。

ちゃんと、介護の訓練をしたわけではないおとんは、とにかく力任せにやっていました。
汗びっしょりになって頑張るおとんに。
おかんは「汗が気持ち悪い」と怒鳴っていました。
おとんの頑張りは、黒いズボンが壁にこすれてシミになっているのが、今でも実家に残っているのでわかります。

そして、力任せに介護をしていたおとんは、
椎間板ヘルニアになりました。

暑がりなのに、コルセットをしなければいけない苦痛。
頑張っているのに「痛い」「そうじゃない」「早くして」散々怒鳴られて、おとんは徐々に
おかんの夜の呼び出しを無視するようになりました。

・キーパーソンは中学生⁈

そのうち、日中入ってくれるヘルパーさんも増えてきて、新規ヘルパー事業所の契約には、家族のサインが必要です。

この時、姉も私立の中学に行きづらくなり、不登校になっていました。
なので、ヘルパーさんが、新しく入ると
日中、仕事で居ないおとんに代わって、
あれはどこにある、これはこうする。など
ヘルパーさんが姉を頼るようになりました。
これは、おかんが亡くなってからヘルパーさん達が口々に言っていました「お姉ちゃんを頼りすぎた。」と

私は、他人なんて絶対仲良くなるか!!と
意地を張っていたので、ヘルパーさんの名前すら覚えずに、すごしていました。
姉曰く「私のできないことをやってもらうんだから、しかたない」だそうです。
それでも、姉は、おとんが夜中、おかんを無視すると、尿器を使って、必死になっておかんを介護していました。

なので、自然と新規ヘルパー事業所の
キーパーソンは、姉になっていったのです。

・おかん教

当時姉は、中学3年生。
キーパーソンになるには、荷が重すぎました。
それでも、姉はおかん信者だったのです。
おかんの言う通りにすれば、良い。
おかんの言った塾に行き、おかんの決めた私立の中学に行き、何でもおかんに決めてもらう。

私は自分のことは自分で決めたい。と思っていたので、おかんにべったりな姉が、どうかしてる。と思いました。
これは、おかんが亡くなった後、姉にすさまじいダメージを与えました。
「私の神は死んだ。もう何もできない。」と

だから、姉も精神障害者になってしまったのです。
もとより、おかんの余命宣告の時から、鬱状態で、それをおかんが治そうと、いろんな病院に連れて行ったこともありますが。
障害者認定を受けるほどではありませんでした。

・今回のまとめ

この様に、一見無事に見えた工事は、手抜き工事で、おとんは介護放棄、姉がキーパーソンになって、どんどん、おかんの介護が、私の家族をめちゃくちゃにしていきました。

私は私で、学校には行かず、
昼は他人のヘルパーさんが来ているので、
活動は深夜になり、
自然と深夜アニメを見るようになり、
ヲタクへの道を順調に進めていくのでした。

次回は、少しだけ、ヘルパーさんと仲良くなる私や、おかんとヘルパーさんの社長を交えた大喧嘩の話なんかができれば、と考えています。

おとんを介護放棄と書いていますが、
これでも、土日は頑張って料理を作ってくれたり、
夫婦間で、子供の不登校について話し合ったりはなくても、たまには、起きてきて、トイレに連れて行ったりしてくれていたんですよ。

後々書きますが、あんなことがなければ、
おとんは、おかんともっと許し合える仲になっていたと思います。

今、おとんは私の実家(リフォームした家)に一人で住んでいますが、おかんの写真をいつも見えるところに飾っているのです。

たとえ心が相手を好きでも、
体力や精神力を削られれば、それは上手く相手に伝わらないのでしょうね。

私たちも、おとんの限界に気付いてあげるべきでした。家族の負担を少しでも減らして、頼れるところは、福祉に頼って、頑張っていれば、
家族はバラバラにならなかったのではないかと思います。

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