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共作小説【白い春~君に贈る歌~】第3章「繋ぎとめるもの、思いとどまらせるもの」①

 身体がビクッとして、目が覚めた。
 誰かの声が聞こえたような気がする。上野さんかな。いや、まさか。変な夢を見ていたようだ。
 鼓動が高鳴っている。誰かに不審に思われていないかを確認した。
 
 目の前では、医師と看護師、薬剤師、管理栄養士、医療ソーシャルワーカーがテーブルを囲んで話をしている。
 ここは、ホスピスのカンファレンス室。毎日、昼休憩の後には会議が行われている。
 手元にリハビリカルテを開き、読んでいるように目を伏せる。この時間が非常に眠い。再び眠りそうになって、うつらうつらしながら、看護師の話を聞いていると、俄然目が覚める話題になった。
 山本さんが最近、精神的に不安定であるらしいのだ。
 ナースコールを頻繁に鳴らしては、職員を呼び、死に対する不安や病院に対する不満を漏らす。ご飯を食べないことも増えているようである。
 唯一、患者同士で交流のある上野さんとも、しばらく顔を合わせることすらしていない。
 彼女にどう対応したらよいか、僕は何も意見を言うことができなかった。

 カンファレンスが終わり、おむつ交換の時間も終えた後、いつものように山本さんの病室を訪ねた。

「山本さん、こんにちは」

「……ああ。はい」
 
 ぼんやりとした口調で答える。山本さんはベッドで布団を深く被って仰臥していた。酸素カニューレを鼻に装着している。二リットル。酸素量は以前より一リットル増量していた。こちらに視線を向けることはない。一週間ぶりに会った山本さんの様子は、やはりいつもと違うものだった。
 もちろん、今日のカンファレンスで話し合ったことは、知らないふりを貫かなければならない。山本さんの調子に合わせつつも、いつもと大きくは変わらない態度で話しかけた。

「あの、体調はいかがですか?」

「……」

「作品展まで、もう少しですね。山本さんと一緒に描いてきた絵が、ついにお披露目ですね」

「……」
 
 僕だけが言葉を発する室内は、どこまでも静かで重苦しい雰囲気だった。山本さんは、石のように動かない。ただ、胸のあたりの布団が上下することが僅かな安心を与えてくれた。

 入院して間もない頃、山本さんが過去に描いた油彩画の写真を見せてくれたことを思い出した。大きな岩の絵だった。この絵が彼女の一番お気に入りの作品なのだと言う。

「ねえ、この隅っこに小さな雑草があるでしょう。これが私なんだ」

 そう説明してから、山本さんはしばらく黙った。瞼が緩みながら写真を見ていたが、心はもっと遠くを見ているようだった。
 
 あのときと同じような目をしていた。

「……すいません。今日は、ゆっくりしましょうか。失礼しました」

 そう言って部屋を去ろうとすると、そろそろと布団を捲る音が聞こえた。

「あれ、持ってきて」

 ようやく言葉を発した彼女は、作業療法の時間に絵を描いていたスケッチブックを指差した。
 山本さんの痩せ細った腕でスケッチブックを受け取る。彼女がスケッチブックを緩慢に開くと、カーテンの隙間から入り込んだ光が反射した。冬日を掬って発光しているようだった。
 ぱらぱらと捲って、絵を眺める。
 すると突然、びりびりと紙が縦に破けた。

「えっ、大丈夫ですか?」

 声をかけるが、彼女はそれを意図してやっていた。作品を次々と引きちぎり始めたのだ。

「え……ちょっと! 山本さん! 何をやってるんですか?」

 山本さんの腕を掴んだ。彼女は抵抗するが、あまりにも弱々しい力だった。

「こんなことをやって何になるのよ」

 言葉が出なかった。もちろん、意味はたくさんある。が、それを説明したところで彼女の心には響かないだろう。
 次の言葉を探している間も、山本さんの手はびりびりと紙を破り続ける。
 
「山本さん……辞めましょう。あの、僕は山本さんの絵、好きでした」

「……」

 山本さんは急に手を止めた。
 僕は床に落ちた紙片を拾い集める。作品展はもうできないだろう。
 彼女は僕を、現実を拒絶するように、布団を顔まで被った。

「主人は私なしでは生活できない。あの人は、家のことなんて何もやってこなかったから。あの人のために、もう少し生きなきゃって思う。絵だって描きたい。でもね……。この痛みには耐えられないし、身体も自由に動かない。はっきり言って、もう死んでしまいたいって思うよ」

 消え入りそうな声だった。布団の中から僅かに聴こえる叫び。胸が締め付けられて呼吸が浅くなった。
 その日、彼女はそれ以上の言葉を僕に発してくれることはなかった。

 後日、ナースステーションで坂本さんから声をかけられた。いつになく堅い表情をしている。

「ちょっとごめんね。山本さんのことなんだけど」

「はい?」

「リハビリ、もういいってさ。ドクターとも話したけど、中止になった」 

「そうなんですか」

 少し覚悟はしていた。が、やはり自分ではどうにもできない現実に目の前が暗くなった。

「まあ元気出せよ。ところで。来月の四日、山本さんの誕生日じゃん? そこでさ、色紙をプレゼントするんだけど。三浦くん、山本さんと絵を描いてたでしょ?」

「はい……」

「他のナースとも話したんだけど、三浦くんの絵を添えたら、絶対に喜んでもらえると思うんだよねえ。描いてもらえないかな? お願い!」

 「はい、わかりました」

 僕の返答を聞いて、坂本さんはやや拍子抜けしたように目を見開いた。そして、歯を出して笑う。

「えっ、一発でOK? 実は断られると思うから、しつこく説得してくれってみんなから言われてたのに。ラッキー。じゃ、頼んだよ」

「あ、待ってください。色紙に添える絵って何を描けばいいんですか?」

「それは三浦くんが一番わかってるんじゃないの。サイズとか、全部お任せするよ」

 さっきとは打って変わって、いつもの軽い調子で頼みごとを済ませる。もはや才能だ。
 一方、僕は引き受けたのはよいとして、山本さんに何の絵を描いたらいいのか、頭を悩ませることになった。

 これは山本さんにとって、きっと最後の誕生日だ。僕は、山本さんに何を届けたいのだろう。彼女はどんなことを望んでいるだろう。
 気づくとそのことばかりを考えていた。書類も手を止めてしまうことが増え、捗らなくなっていた。

 深夜、書斎に籠り読書しようとするが、集中できずに本から視線を外す。壁に貼ってある僕の似顔絵が目についた。息子が描いてくれたものだ。この絵を描いている息子の姿を想像すると涙がこみ上げてくる。
 ふと、幼い頃に祖母から言われた言葉が甦ってきた。

「人間はね、笑ってる顔がいちばんいい顔なんだよ」

 今まで患者の似顔絵を描くことはあっても、イラストのようなもので写実的に描いたことはなかった。
 そうだ。山本さんの顔を描こう。山本さんの魅力を絵に閉じ込めるのだ。
 そう決めて、佐々木さんに山本さんの写真を撮るよう依頼した。きっと彼女は、自分の顔を描かれることを嫌がる。だから、誕生日に渡すまで内緒にしておかなければならない。

 家族が寝静まった夜、写真にデッサンスケールを当てて覗く。F8サイズの画用紙に鉛筆を走らせた。

 あなたは雑草ではない。

 何度も描いては消して、気づくと朝になっていた。この感覚を手放さないように、一度に全部を描きたかった。
 最後に俳句を添える。

  立春の日を掬ひたる画帳かな

 徹夜明けの朝、娘が風邪を引いた。高熱で咳も出ている。看病のため、しばらく仕事を休まなければならなくなった。
 僕も頸と肩が凄まじく痛い。冷静になれば、もう限界だった。自分の静養も兼ねて、娘と家でのんびりと過ごすことになった。

 その間、描いた似顔絵を眺めては、不安な気持ちにかられた。

 入浴のとき、寝かしつけのとき、いつも子どもたちに童謡を歌う。娘がなかなか寝ずに、何度も繰り返し歌っていると、隣で目を閉じて静かになった。呼吸がゆっくりになり、寝たのだと思って歌うのを辞める。すると、娘は目を開けて、「もう一回歌って」とねだった。

 僕の歌は、こういうもののためにあるのかもしれない。

 そう思って、また何度も歌った。自然と涙が出る。が、理由をあまり考えないようにした。

 一週間ぶりに出勤すると、山本さんが亡くなったことが告げられた。僕が休んでいる間に、山本さんの容態は急変したのである。
 誕生日の五日前だった。とうとう似顔絵を渡すことはできなかった。

 山本さん。

 山本さん。

 山本さん。

 病室を訪ねた。いないとわかっていながらも。
 ネームプレートは外されていた。何もなかったように、空っぽになった部屋。
 換気のために、ドアと窓が開いている。
 レースカーテンが膨らんだ。繰り返す波のように、風が緩やかな輪郭をつける。
 同じようで二度とはない刹那。
 それをいつまでも、ぼんやりと見つめていた。

 あなたが初めてリハビリをした、あの日。

「先生は、何のために生きてるんですか?」

 最期まで、あなたの質問に答えることができなかった。あなたの言葉が僕に住みついて、いつも胸の底にこだましているのである。

 山本さんの死により、上野さんは相当に落ち込んでいるようだった。
 本人から山本さんの話題を口にすることはなかったが、明らかに口数は減り、作り笑顔も多くなった。
 上野さんにとっても、この病院の患者で会話を交わすのは、山本さんだけだった。二人は昼食後のラウンジで、珈琲を飲みながら語ることがしばしばあった。どんな言葉が交わされていたのかは、わからない。だが、陽光の差し込む窓際で、手を叩くほど笑い合う様子は、我々スタッフを明るい気持ちにさせ、励ましてくれていた。

 山本さんの精神状態が不安定になってから、上野さんは動揺しているように見えた。それでも彼女はスタッフを気遣い、気丈に振る舞う。
 佐々木さんが上野さんの話を傾聴し、熱心にメンタルケアに努めていたが、彼女は本音を語らないようだった。
 僕もあえて自分から触れることはせず、いつものように接することに徹していた。

 山本さんが亡くなってから十五日が経過した。
 上野さんの病室を訪ねると、作詩のために使っているノートの隣に茶色の小さな紙袋が置いてある。それを上野さんから渡されたときに気がついた。そうか、バレンタインデーだった。ホワイトチョコが入っている。

「ありがとうございます! これ、どうしたんですか?」

「通販で買ったんです。まあ、自分の分も」

 彼女は照れくさそうに答えたが、我ながら野暮な質問だった。

「よかったら、一緒に食べませんか?」

「じゃあ、せっかくなんで、いただきます」

 ……美味しい。箱の裏側を見ると、ベルギー産と表記がある。ずいぶんと高級感があった。
 チョコレートの味に集中したかったが、そこに流れる重たい空気に注意を向けないわけにはいかなかった。
 上野さんはチョコレートを口に含みながら、黙ってテーブルを見つめている。

 ジョン・レノンの「Love」が流れていた。

 身寄りのない上野さんにとって、山本さんは、この病院で見つけた友人、あるいは母親のような存在だったのかもしれない。彼女の現実に、山本さんの死が、自分自身の死が横たわっている。

「すごく美味しいです。ありがとうございます」

「よかった。そう言っていただけて嬉しいです」

「僕、チョコレートが大好きなんですよ。それもホワイトが。よく好みがわかりましたね」

「ふふふ」

 瞬時にいつもの笑顔に戻る。だいぶ無理をしているようだ。
 またすぐに沈黙してしまいそうだったので、勇気を出して言葉を続けた。

「あの……えっと」

「はい?」

「山本さんか亡くなってから半月が経ちましたね……」

「はい……」

「上野さん、そのことに人一倍、向き合っているんですね」

「いえ……」

「あんまり偉そうなことは言えないんですが、距離について、一緒に考えてみませんか」

「距離……ですか?」

「どんなに大切な人にも悲しい出来事にも、一定の距離で付き合っていかなければならないと思うんですよ。境界線を作ること。そうでなければ、自分を守ることができなくなって、いつか心が倒れてしまいます」

 かつてカウンセラーの先生から言われた言葉だった。あれから十八年後に、こうやって同じ言葉を誰かに伝える番が来るとは思ってもみなかった。

「あ、それって……。ご自身の経験から見つけたことですか?」

「え、まあ。はい。でも同時に、絶対に自分と繋がっているものが、必ずあると思うんです。それを見失わずに、心の真ん中に置いてくださいね」

「絶対に自分と繋がっているもの……」

「まあ、そうは言っても、僕も全然距離がうまくとれない人間なんですけどね」

 彼女は、はっとした顔をして、口が軽く開いている。
 僕の頭には、ある日の思い出が浮かんでいた。

 死を考えていた、あの日のことである。




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