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就職先を選ぶ時のはなし(人生の転機その2、就職編)

平成3年4月、三菱電機ビルテクノサービス株式会社という三菱電機100%出資の子会社に就職しました。
平成3年3月31日に新幹線で東京に行き、ボストンバックを肩に下げて西武新宿線の花小金井駅から西へ10分くらい研修センターまで歩いたことを覚えています。不安な気持ちを抱えながら、いわゆる、お上りさんという感じでした。
そして、仮配属となるまでの2ヶ月をこの研修センターで過ごしました。

さて、人生の転機その1(高校受験編)を経た私は、神戸高専での生活をスタートさせました。
高専って各都道県に一校づつはあるんです。戦後直ぐにエンジニアが早く欲しいということで5年間の技術に特化した教育を行う学校として誕生しました。兵庫県は、国立の明石高専と神戸市立の神戸高専の2校あります。

4年間は、舞子の学舎に通い、最後の1年間は学校が移転しまして学園都市に通いました。
高専時代は、勉強よりバイトを優先した生活を送ってました。何か欲しいものがあってバイトするのではなく、目的もなくだらだらとした毎日を送っていた様に思います。
気の利いたエピソードでもと思って高専時代の記憶にアクセスしようとするのですが、あまり心に引っかかりのある体験がないんですよね〜。
合格した時におばあちゃんが喜んでくれたところが高専時代のピークやったんかもしれません。劇的な物語が無くて…。読んでいただいてるのにすいません💦

さてさて、それで就職という人生の転機となるお話です。
高専5年生になると就職活動が始まります。私は、何処に行きたいという思いもなくダラダラと求人案内に目を通すだけでいたずらに日々を費やしていました。実は、宇宙開発の研究に興味があったんですけど、高専卒だと研究職にはつけないやろなあとあっさり諦めていました。
それ以外やったら何処でもええわ、とだらだらとバイトに明け暮れる日々を送ってました。
この頃は、バブルの影響もあり一人に20社以上の求人があったように記憶しています(もっとやったかも)。
何処かには就職できるという安心感があったんです。今から思うとええ時代です。
そうこうしている内に夏休みに入る7月になっていました。この頃にはほぼ皆んな内定をもらっており、決まっていないのは私一人という状況になっていました。流石に少しだけ焦りを覚えた私は就職担当の先生に相談しに行きました。

ここにしようと決めた理由​

そこで勧められたのが三菱電機ビルテクノサービスでした。実は、既に一人の生徒が早々と決まっていた会社だったのですが、その生徒が色弱であった為に内定が出ないということで、就職担当の先生が困っていました。
何故困っているかというと、この時代は、景気が良かったので会社は人が欲しい時代でした。三菱電機ビルテクノサービスは、就職氷河期の時にも神戸高専から人をとってくれていたので、就職担当の先生としては借りがある為に就職バブルで人手不足のこの年にはどうしても人を入れたいという事情があったのです。
実は、その事を知ってやる気を出した自分がいました。

自分の後輩の為にも入らなあかん!
学校の為にも俺が入らなあかん!

という勝手な使命感が湧いてきたのです。
なんかねぇ。今から思うと勝手な使命感やなあと感じるのですが、今後の後輩の為とか、学校の体裁の為にとか、自分以外の何かの為に自分を役立たせようという思いは、議員をさせてもらっている現在にも繋がっているんやなあと妙に納得してしまいます。
そして、筆記試験と面接とを受けてとんとん拍子に決まっていきました。

実は、給料や有給休暇の日数や勤務先という価値判断では、一切選んでいないんです。周りの同級生は、そこを重要視していた人が大多数でした。

自分自身がどこで何をしたいという欲求、お金や待遇面がいいという損得の欲求よりも、他人の役に立つことをしたいという欲求の方が強いのだと改めて感じました。

他人の役に立つことで、周りの人からも自分自身からも認められたい自分がいる

「他人が嫌がることをしない」「自分がされて嫌なことは他人にしない」「他人様の役に立つ人になりなさい」ということをおばあちゃんや父から言われてきた事がずっと心に残っていて、現在も自分の行動規範になってるんやなあと納得。
ただし、親切の押売りにならんようにせんとあきません。

最後まで、お読みいただきありがとうございます。


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