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ショートショート:勤労婦人リン子の大冒険

 これ絶対カルロスゴーン入ってるよねと新人ちゃん達と笑いながら、台車に乗せた沢山の段ボール箱をリン子さんは汗を拭きながら押していました。
 今月末付けで退社といっても有給が溜まっているので、明日の最終出社日までに片付けしなければならないのです。
 「あれ、リン子さんのリンって五輪の輪なんですか?」
 「そうよ。よく倫理の方と間違えられるけどね。」

 1964年、オリンピックの年にリン子さんは生まれ、家具調テレビに映る選手に笑いかけたと良く父から聞かされました。両親は共に東北から集団就職でやってきた「金の卵」で、働きながら定時制高校に通い、僅かな給与から少しずつ貯金し、やっと買った家具調テレビは父の宝物で、10数年後リン子さんと後に生まれる弟がチャンネルの取り合いで喧嘩をし、つまみを壊した後も、ペンチで廻して使い続けていました。
 父は真面目に一生懸命に働いていれば必ず報われるとリン子さんに言い聞かせて育てました。言い聞かせるだけでなく山本五十六のように自らやってみせ褒めて育てたので、リン子さんは真面目に学業をこなし浪人も留年もせず1987年に大学の英文科を卒業しました。
 実はここだけの話、大学、それも四年生大学に行く事はリン子さんの本意では無かったのです。読書や映画鑑賞を好む完全インドア派のリン子さんは、できる事なら早くお見合いでもして結婚して家に収まりたかったのです。しかし行きたかったのに行けなかった父の想いが痛い程わかる長女のリン子さんは大学に行き、それがリン子さんの人生を大きく変える事になりました。
 折しもリン子さんの大学卒業の前年、1986年に男女雇用機会均等法が施行され、企業では総合職、一般職に分けて採用が始まりました。リン子さんは迷わず中小企業の一般事務職で応募し、正社員採用されました。友人は鼻息荒く大企業を狙う子などもいましたが、社内結婚を目論むリン子さんにとって、へたに大きな会社だと支店が多くどこに飛ばされるか分からないし、こじんまりしている方が居心地が良さそうという訳の分からない理由で選んだだけでした。大企業と中小企業の生涯賃金格差など全く知りませんでした。
 会社は精密部品製造加工業で、従業員100人、本社の他に工場と営業所が2つづつありました。製品は一部上場の大企業のラジカセなどにも使われているんだよと面接の際社長が言っていました。
 会社生活は驚きの連続でした。朝出社すると女性事務員は全員の机上拭掃除、湯のみ茶碗回収洗浄、煙草皿の清掃を行い、出社してきた男性陣にお茶を入れます。言葉で書くと大した事無いですが、これが結構な仕事なのです。当時分煙など無いので皆自分の机で煙草を吸います。喫煙率も高く男性はほぼほぼ喫煙します。湯呑は紙ではなく瀬戸物なので、運ぶのも洗うのも手間でした。これらを全て女性がやります。男性は新人でもやりません。
当時はその事に、全く疑問を持ちませんでした。
 8時半の就業時間になると朝礼を行います。そして社歌を歌い、社是を唱和し、業務を始めます。リン子さんは人事総務部に配属されました。家事手伝いの友人には「人事なんて凄いじゃん」と言われましたが、実際は雑用係で電球の交換や社員旅行の手配やらで、体を動かす方が多い部署でした。おまけに締め近くなるとカーボン複写の伝票を何冊も手書きするのでむくむくと腕が太くなりました。
 こうしてリン子さんの会社生活が始まったのですが、初年そうそう、ショッキングな映像を見る事になりました。
 液晶テレビの中で、米国の議員が一部上場の大企業のラジカセをハンマーで壊していました。それを見た瞬間、それを誇らしく言っていた社長の顔を思い出してリン子さんは泣きました。家族が心配して訳を聞きましたが、リン子さんにも説明できませんでした。ジャパンバッシングという言葉を知るのは、それからずっと後の事です。

 そうこうするうちに天上天下唯我独尊だった日本はバブルが崩壊し、1999年7の月になり、リン子さんは35歳のお局様になりました。社内結婚する筈だったのに素敵な人は後輩達に根こそぎ取られ、クリスマス過ぎたケーキのように誰も手を付けなくなりました。女子社員は毎年入社してきますが、皆数年で結婚退社していきます。数年に一度、とても優秀でやる気のある子が入ってきて、そういう時は結婚しても続けられるように上とも掛け合うのですが、結局辞めてしまいます。
 まずどんなに本人が優秀でも、結婚したら家庭に入りたいという人が一定数います。夫が共働きを望まない場合もあるし、望んでも家事を手分けするとは限りません。この時点で結婚後も以前と同じパフォーマンスで働ける女性の割合はかなり減っています。今までのハードルを飛び越えても、子供ができたら更に高いハードルが待っています。
 「そこまでしてしがみつきたい仕事かというと、そうでもないんです。」
 確かにこの会社の女性はほぼ一般職です。一部営業や技術に女性総合職はいますが、彼女達が辞める時は転職する時が殆どです。我々一般職のように、そもそも仕事を続けるかという話ではないのです。又人事総務部のリン子さんの耳には更に厳しい話も入ってきていました。今まで毎年新卒で女性一般職を正社員で採用していたのをやめ、必要な時に派遣を雇うという話です。そうなれば今いる一般事務正社員達は、更にプラスアルファを求められるでしょう。
 リン子さんはため息をつきました。父の言葉通り、真面目に一生懸命だけが取り柄で今まで働いてきました。毎年入る後輩達にも親身に教えてきました。しかし皆辞めてしまう。その上「そこまでしがみつきたい仕事」でもないと言われ、それに同意してしまう自分もいるのです。シーシュポスの神話の様に、毎年同じ事をやって、辞められて、無駄な、空しい仕事をしている。。。
 リン子さんは転職活動を始めました。

 2009年、45歳のリン子さんは国内線の飛行機の窓から雲に隠れる東北地方を見ていました。5年前40歳でドイツ系外資に転職し、カルチャーギャップに辟易しながらもがむしゃらに働き、今日は課長代理として仙台営業所に出張する所です。そもそもがちがちの日本企業にいたので、最初は日本企業を転職対象にしていたリン子さんでしたが、既に35歳を過ぎていた為対象が外資に移るのは自然な流れでした。英文科を出たのに英語が話せず、ドイツ語なんて第二外国語でも取っていませんでしたが、面接の時愛読書がヘッセのデミアンと言ったら、車輪のしたでもシッダールタでもなくデミアンとは素晴らしいと日本人の社長から何故か喜ばれ恐らくそれが元で採用されました。しかし入社したらまわりは帰国子女やバイリンギャルだらけ、英語は殆ど使わないと聞いていたのにドイツ本社から電話やメールやドイツ人がやって来るのでリン子さんは仕方なく毎日英語の勉強を続けました。又前職では社長の意向で全社員に取扱製品を覚えさせていたので、このドイツの会社でも自分なりに取扱製品である洗浄機器を勉強し続けました。それが評価されたのかはわかりませんが、5年で課長代理になり、出張残業休日出勤が増えていきました。御多分に漏れずリン子さんも地図の読めない女なので、慣れないうちはがちがちになって出張していました。事前に調べたのにホームの場所を間違え乗り遅れたり、のぞみとこだまを間違えて乗ってリカバリしようと却って遠回りしたり、5泊の出張なのに3枚しかパンツを持ってこなかったり、おまけに30代から独り暮らしなのに自炊する時間も無くなって家の中はコンビニの袋と汚れた衣類がスモーキーマウンテンの景色を現わす有様でした。どうしてこうなっちゃったのか、みんなはどうしているのかと周りを見渡すと、社内社外殆どの管理職に奥様がいました。若い頃奥さんになりたいと願ったリン子さんが今は奥さんが欲しいと強く激しく願います。遅く帰っても綺麗な部屋で暖かい食事が待っているなんて。でもリン子さんは自分の世話をするだけで良いのですから、まだやわです。社内にはお子さんがいる女性管理職もいるのです。
 「真面目に、一生懸命に。」
 リン子さんは自分に言い聞かせるようにつぶやいて仙台営業所に向かいます。
 実は今日はリン子さんはサンドバックになる覚悟で来ています。仙台営業所の閉鎖の話が出たのが2008年末、リーマンショックがあったので皆予想はしていましたが、近くに通える営業所は無く、社員は東京に行くか辞めるかの二者択一を迫られています。仙台営業所は日本法人ができた時からいる、ロイヤリティも知識経験もある社員が多いのです。その為処理を急がず、時間をかけて丁寧に会社の状況を説明する必要があります。又営業所員は9名ですが、それぞれに家族がいます。結婚したばかりの人、家を買った人、子供が希望の高校に入った人。皆人生が変わってしまうのです。
 「みんなにはもう話をして、閉鎖自体は納得してくれています。」
 リン子さんはソファーから滑りそうになりました。所長さんは勤続30年、高専から技術一筋で、今でも手が足りない時は修理も手伝います。当然所員からの信頼も厚く、5年前に入ったばかりのリン子さんが説明するより良いでしょう。
 「ただ、俺らの事よりお客さんの事が心配で。」
 舶来物全てに言える事ですが、国産より概して高く、部品の取り寄せなどに時間がかかります。夏のバカンス、クリスマスの時期は1か月遅れもざらです。かつ、うちの製品はドイツ製という事もあり重量があり、小柄な日本人には取り回しが大変な部分もあります。しかし洗浄力は比類がなく、デメリットを納得したうえで長く使って下さっているファンも多いのです。それは勿論、地域に根差した営業と細やかなメンテナンス体制の賜物です。
 「ご安心下さい。東京のメンテ部で対応しますし。」
 そう言いながら、自分の事よりお客様を心配する所長さんの心意気に感じ入って、リン子さんは涙を我慢するのに必死でした。


 「明日で最後ですね。この後って決まってるんですか?」
 「暫くゆっくりしようかなと思って。」
 あと3年で定年、延長でプラス5年働けるのに、何故今と思われても不思議ではありません。でもコロナで在宅勤務するようになり、今までのようにがむしゃらに働くのではなく、毎日を丁寧に過ごしたいと思うようになったのです。今までいた場所にしがみつかず、若い人に場所をあけたい気持ちもあります。リン子さんよりずっと優秀な若い子が正社員になれなかったり、大学の奨学金返済で苦労しているのを見ているからです。
 そして57歳のリン子さんにとって、未来より過去の方が、お金より時間の方が、やりがいより日々の生活の方が、愛おしく大切なのです。
 34年間のサラリーマン生活でマンションも手に入れ、貯金も資産運用の知識も手に入れました。残念ながらパートナーは手に入りませんでしたが、地域活動やボランティア活動で出会った仲間達がいます。
 これからどんな冒険が起こるのか、今から楽しみです。

 「五輪の輪子さんだけに、オリンピック退職ですね」
 リン子さんはうふふと笑って、そうねと言いました。


 

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