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掌編小説「あめのにおい」

 アオイさんは雨の匂いに敏感な人だった。
 まだ女子高生だった頃、隣の席同士だったわたしたちは放課後によく雑談をした。他愛のない会話の合間に、彼女が突然、「雨の匂いがする」と呟く。その時は降っていなくても、昇降口を出る頃には雨粒の跡が地面に点々とした模様を落としていた。
 靴を履き終え、立ち込める雨雲を見つめるアオイさんの横顔は、嘘みたいに無表情だった。

 日曜日の朝、そんなとりとめのない記憶が瞼の裏をよぎって目が覚めた。
 休日出勤の翌朝はどこか損をした気分になる。ベッドから重たい体を起こす。まず視界に入ったのは、床に脱ぎ捨てられたスーツと下着だった。それから一足遅く、枕元にあったスマートフォンの目覚ましが鳴る。もう少しだけ寝ていられたかもしれない。そう思うと、やっぱり損をした気分になった。
 その日、わたしはずっと家の中で過ごした。ツイッターやユーチューブを見て、飽きたらテレビをザッピングし、付録目当てで買った雑誌の中身を初めてちゃんと読んだ。小腹が空けば戸棚にある適当なものを食べた。BGMの代わりにしていたテレビから、昼過ぎに雨が降るという情報が耳に届く。やがて、時間の経過と共に室内は薄暗くなり、小さな部屋の中に雨音がゆっくりと染み込んでいった。

 お茶を沸かしたり、洗濯物を取り込んだり、部屋を片付けたりしていると、時折、そうした行為が誰かを迎え入れる長い準備のように感じる瞬間がある。その分、スマートフォンに届く通知が人ではなく企業からの広告ばかりだと、芽生え始めたあたたかい気持ちはみるみる萎んでいった。
 また、なんとなくアオイさんについて考えていた。彼女は今、どこで何をしているのだろう。高校時代の同級生なんて、考えてみればもう繋がりも薄い。もしかすると、「アオイさん」という人物はどこにもいなくて、架空の存在なんじゃないか。本当はたくさん言葉を交わしたはずなのに、そのどれもが取るに足らない話題ばかりで、今考えるとそれはかけがえのない時間だった気もするけれど、そんな気がするだけで、実際は何を話したのかなんてほとんど思い出せない。だから、記憶の中にいる彼女の表情には、いつまで経っても現実味がなかった。
 お茶を注いだマグカップを持って窓際に立つ。カーテンの隙間から外の景色を見る。けれども、窓ガラスは曇ってしまって、何も見通せない。ガラスの表面を指先でそっとなぞる。わずかに外の景色が顔を覗かせる。でも、その距離が縮まったわけじゃない。
 ためしに窓ガラスに鼻を近づけてみた。鼻先が触れて冷たい感覚が走る。思わず顔をしかめた。やっぱり、わたしには彼女と違って、雨の匂いは分からない。香るのは、手に持ったお茶の匂いだけだ。
 結局、雨は一日中降り続けていた。

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