掌編「信号機」

 彼女の声を最後に聞いたのはいつだっただろう。
「明日も晴れるといいね」
 小さなスクリーンに映る彼女の笑顔がまぶしい。部屋が薄暗いせいとか、そんな情緒のない話ではなく、本当にまぶしかった。すすり泣く声がまばらに響く。この場にいる全員が、彼女に釘づけだった。
 ただひとり、先輩を除いては。

「駅まで送ってやるよ」
 会場の外に出ると、ぼくは先輩にそう声をかけられた。背後に広がる曇り空が、重苦しくただよう。三年ぶりに再会した先輩の表情には、不自然に歪んだ笑みが浮かんでいる。
 父親から借りたという黒のセダンに乗り込む。走り始めたのと同じころ、水滴がフロントガラスを叩き始めた。先輩が小さく舌打ちをする。雨の日の大通りは交通量も自然と増す。ぼくらは何度も信号機につかまり、その度に、車内は重い沈黙につつまれた。
 早く青になれ、そう心の中で唱えたときだった。
「やっぱ、来るんじゃなかったかもな」
 先輩がハンドルにもたれながらそう言った。なんか色々思い出しちまうわ、と今度はわざとらしく声を上げる。
「葬式も何もかも終わってから、ふとしたきっかけでそのことを知って、ひと知れず感傷に浸りたかったよ」
 先輩は自嘲気味に口角を曲げる。ぼくは何も答えなかった。いや、答えられなかった。信号が青になる。混雑した道はなかなか前に進まない。
「それに、人の死があんな風に、なんてゆうか、劇的に描かれるのは好きじゃない。作り物じみているような気がするんだ。葬式も、あのビデオも、悲しみを演出する舞台装置みたいで、ぜんぜん泣けなかった」
 ほんとに、ぜんぜん、泣けなかったよ。先輩は小さくそう繰り返した。そうですね。とだけぼくは答える。先輩の方は見ずに、サイドミラーに視線を逃す。車はまた赤信号につかまった。テールランプの明かりと、信号機の赤く濡れた輝きがはてしなく続いている。駅までの道のりは遠い。
 水滴のつたうサイドミラーに映った自分たちを見つめながら、ぼくらは雨の音を頼りに、信号機が青になるのを耐えるように待ち続けた。

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