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掌編小説「春のおとずれ」

 靴紐を固く結んで部屋を出た。ゆっくりと扉を閉めて鍵穴に鍵を差し込む。ドアノブを捻ってちゃんと閉まっていることを確認すると、階段を降りて鍵をポストの中に入れた。そのままキャリーケースを引いて歩き出す。途中、一度だけ振り返って、遠ざかるアパートの姿を写真に収めた。

 電車に揺られながらぼんやりと外の景色を見つめる。春先の青空が、遠くに建ち並ぶ鉄塔を飲み込むようにして広がっていた。この街に越してきて最初のうちは、まだ見ぬ地に強い期待を抱いていた。でも、こことは別の場所へ行く、それは同じなのに、今の心境はあの頃とは何かが違う。
 電車がトンネルに入る。真っ青な空から一変して窓の外は黒く広がり、反射する自分の顔が浮かび上がる。表情が読み取れなかった。今、どんな思いでこの街を出て、次の街で生活し、何を考えながら誰と接するのか、見当もつかなかった。
 気候が暖かいからといって、そこにいる自分たちの気持ちまでも、雲一つない空のようになるわけじゃない。もしかすると、暗い感情を抜け出せないままかもしれない。

 瞬間、電車がトンネルを抜けた。突然訪れた明るさに思わず目を細める。それから、すぐに目を見張った。
 開けた視界に桜並木が流れていく光景が広がる。桜の花びらが散る余韻に浸る間もなく、電車は風を切ってその中を走り抜ける。ほどなくして、アナウンスが次の駅が近いことを伝えた。速度を落とした電車がホームの中へと入る。自分も、ここで乗り換えだった。
 降りてすぐ、来た方角を振り返った。こちらに向かって歩く雑踏の中に佇みながら、ただまっすぐに、その先を見つめ続けた。桜は流石にここからは見えない。
 ずっと、大事なものを置き去りにしてしまうような感傷が付き纏っていた。
 でも、それぐらいあって当然かもしれない。むしろ、いつかもし、この街で過ごした記憶を思い返すなら、少しくらいの心残りを荷物にする方がちょうどいい気がした。
 電車が動き出し、すぐ横を走り去る。その風に乗って、何かが目の前を不意に舞った。手を伸ばし、掴んだそれを掌の上で広げてみる。
 新しい季節は、すぐそこまで迫っていた。

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