見出し画像

ルックバック感想-藤野に残されたものは呪いなのか? そうは思いたくない-

はじめに

皆様はじめまして、海月-Mitsuki-と申します。
やや気取った名前だなと思われるかもしれませんが、自分は普段この名義で音楽活動をしているので、あなたの感性は正しいです。
そしておそらくこの文章も気取った感じになると思います。ご了承ください。

さて、そんな自分が何故この記事を書いているのかと言いますと、タイトルにもある、藤本タツキさんの作品『ルックバック』を読んだからです。
2021年7月19日。日付の変更と共に公開された本作は、時代を抉る新時代青春読切の煽り文句通り、多くの人の心を抉り、瞬く間に話題の中心に上り詰めました。
そしてその話題性の高さと、この作品の持つ受け手の感性や経験次第で如何様にも感じられてしまう作品性から、本作は多くの場所で議論を巻き起こすこととなります。

自分が今書いているこの文章も、そういった反応の一つです。
そう、つまりは、『ルックバック』を読まないと何も始まらない記事なのです。
もし、この記事を開いてらっしゃる方の中に、作品を未読の方がいらっしゃれば、まずはお読みになっていただければと思います。

https://shonenjumpplus.com/episode/3269754496401369355

このレベルの作品を無料で見られることについて、本当にとんでもない世の中になったなという、それ意外の感想はございません。
自分の記事の前提になっているということとは関係なく、純粋に多くの方にお読みいただきたいなと思います。
実際自分は夜中であるにもかかわらず多くの方にこの作品のURLを送りました。読んだ方からは概ね好評でした、と付け加えておきます。

この度の趣旨

さて、本記事は所謂感想文なのですが、どのような感想であれその中心に据えられているメインテーマですとか、趣旨なんかが存在すると思います。
今回の場合それは、記事タイトルにもあるように、
「藤野に残されたものは呪いなのか」
このことについて自分なりの意見をお話ししたいと思います。
こんな風に言うと、自分が語ることで何かメリットが生まれるような物言いですが、あくまでもこれは自分がやりたくなったのでやっているだけです。ただ、思わずnoteの新規登録をし、この記事を書き出す程度にはやりたいことであったと、お伝えさせてください。

改めて申し上げますが、この記事はネタバレ前提『ルックバック』を既読の方に向けた記事ですので、未読の方はここで一度藤本タツキさんによる読切本編に目線なりページの表示なりを移していただければと思います。
https://shonenjumpplus.com/episode/3269754496401369355

前置きも長くなりましたが、進めていきましょう。
自分は好きな作品の感想を見るのが好きなため、Twitter等において作品名を入れ検索し、色々な方の意見を楽しんでおりました。
するとその中で、一定数の根強い意見が目に飛び込んできたのです。
それは以下のようなものでした。

「藤野は結果的に呪いを背負うことになってしまった。彼女は、何はともあれ描き続けるしかないのだ」

こういった論調のものを読むにあたり、凄まじい違和感を覚えたのは事実です。
勿論、感想は人それぞれであり、何を思い何を述べても、社会規範に則った範囲であればそれは自由です。
ですから当然、自分に上記の意見を批判する権利も意図もないですし、何か反論しようと思ってこの記事を書いている訳ではありません。
しかし同時に、自分に合わない意見や作品、出来事を目にした際、何故それは合わないのか突き詰めて考えることも大事だと思っています。
極めて内省的なこの行いは、自分が人生において何を大事に思っており、どういう美意識の下に生きているのかを改めて教えてくれるのです。それらを自覚することは、きっと僕自身を助けてくれるでしょう。
ですからこれは、批判や反論ではなく、あくまでも僕の中での自己分析だと思ってください。

藤野は呪われたのか

藤野は呪いを背負ったという意見に違和感を覚えるのである以上、僕の意見はその真逆、あれは呪いではないということになります。
その感覚を紐解いていきましょう。
91ページから96ページにおいて、藤野は京本の死の責任を自らに求めます。
ずっと引きこもりだった京本、彼女が外に出て大学進学までするようになったのは、小学校を卒業するあの日、自分が漫画を描き続けていると見栄を張ってしまったから。
京本を外に出さなければ死ぬことはなかったのに、自分がそうさせてしまった。何故自分は描いているのか、描いても何も役にたたないのに。
この時点において、藤野は明確に己を責めています。自責の念にかられ、その場から動けなくなり、頽れてしまいます。
この段階では、確かに京本の死はマイナスの作用を藤野にもたらしているでしょう。
けれど、この作品の肝はこの後のシーンからです。
97ページから124ページにおいて、作中の藤野にとっての現実とは違う「藤野と京本」が描かれます。
これを、単なる夢とするのか、ifとしての別世界とするのか、「現実の京本」が描いた漫画の世界とするのか、「現実の藤野」による現実逃避の妄想とするのか、あるいは他の何かなのか。これは大いに意見の分かれるところだと思いますし、その解釈はどれ程多岐にわたってもよいのではないでしょうか。
肝心なのは、104ページにおいて藤野と出会わなかった京本も美大入学のきっかけを掴む可能性が示唆されている点だと思います。それも発端となる作品は同じなのです。
これは、『ファイナルデスティネーション』シリーズ(死の運命を偶然逃れた登場人物達がさらに理不尽な事故により命を奪われるホラー映画)のように、最終的な運命は変えられない、何処かが変わっても辻褄を合わす作用が働くんだという超自然的な捉え方も出来ます。
あるいは、そもそも京本は小学校四年生の時点で藤野を凌駕する基礎画力の持ち主であり(7,8,10,11ページ参照)、描くことが好きで並外れた努力家でもある(31ページ参照)ので、たくさん絵を描けるよりレベルの高い環境に目を向けるのは自然なことだと捉えることも出来ます。
ただ、理由や前提はどうであるにせよ京本はあの日に辿り着いてしまうのです。
同様に、藤野も最終的には漫画家を目指すことも作中にて示されています。

作中現実へのifによる影響と、確かに存在したもの

上記に対し、しかしあれがあくまでも妄想でしかないのであればその仮定は無意味だ。現実の京本は確実に亡くなっていて、藤野は呪われてしまった。
こう仰る方もいるかもしれません。
けれど、自分がそこで目を向けたのは、125ページです。
それまでのシーンが夢であれ、別世界であれ、京本や藤野の想像の産物であれ、125ページからの出来事は、作中における厳然たる事実で現実です。
この場面で藤野は京本が遺していった4コマ漫画を見つけます。
その内容は、124ページまでに描かれている「現実ではない藤野と京本」を彷彿とさせるものです。これにより、124ページまでで提示されている「もしも」は現実の藤野の中にも存在する情報となりました。
その出所がどこであれ、藤野はこの「もしも」に感化されたのではないでしょうか。
そして藤野は、過去に自分がしたサインを見つけ、自分が漫画を描く理由と2人で過ごした日々を思い出し、改めて自分の作品を振り返るという行為をします。
そう、藤野はこれにより振り返ることが出来たのです。タイトルの『ルックバック』がもつ意味の一つでもある、振り返るという行為。この場合は過去に対しての回想や回顧としての振り返りが行われています。

これは自分の意見であり、作者である藤本タツキさんの考えとは違う可能性が高いですが、過去は変えることが出来ます。
厳密に言うならば、過去への認識を変えることでその価値や意味合いを変えることが出来ます。
例えば、
「高校受験に失敗したが、その悔しさをバネに大学はよりレベルの高い志望校に合格した」
この場合、最初の失敗は美談として語られることが多いです。
逆に、
「宝くじに高額当選したが、結果的に人間不信に陥り体調を崩し会社を辞め今では生活が苦しい」
この場合、宝くじの当選という起こった時点では幸運とされる出来事がマイナスのものとして扱われるようになります。ここへさらに、
「上記の理由で生活苦となったが、おかげでお金や人間関係に惑わされない生き方を見つけた。今では本当に大事な人たちと人生を満喫している」
このような変化が起これば過去はプラスとされます。
これが、自分が過去は変えることが出来ると認識する理由です。

一度起きてしまった事実は変えられない。しかし、その捉え方とその後次第で如何様にもプラスの意味を持たせることが出来る。
だから過去は変えられる。

再度申し上げますと、これはあくまでも僕の持論です。
藤本タツキさんの考えではありません。
しかし自分は、再び立ち上がり漫画を描く藤野の背中を見て、日頃考えているこの意見を思い出しました。自分の中では、これらが結びついたのです。
それはつまり、僕は世界をこう見ているよという、認識の問題に他なりません。
そして、藤野が125ページで京本の作品から得た情報も、あくまでもそれは藤野の世界への認識なのです。同様に、91ページから96ページでの藤野の慟哭や自罰も、それは藤野がそう捉えているというそれだけの話なのです。
マインドフルネス(瞑想)がもてはやされて久しいですが、技術体系としてのマインドフルネスもやはり、自分の認識が自分の世界を構築していると定義することが多いです。

過去を振り返った際、それをマイナスのものとして捉えすぎると、その中にあったはずの輝きや、慈しむべき何かも、悪しとして捉えることになってしまいます。そして残念なことに、悪し様に捉えた過去と地続きの現在もまた、マイナスなものという認識になるでしょう。
自らの手で、自分の宝物や自分自身に泥を塗ってしまうのです。それは悲しい。
だからこそ『Don't Look Back in Anger』なのです。(1ページ目の黒板,タイトル,最後のページ左下の本参照)
※Oasisの名曲『Don't Look Back in Anger』や記憶に新しく痛ましい京都アニメーション放火殺人事件との関連は、既に詳しく述べられている方もいらっしゃるので割愛いたします。そして被害にあわれた方に、心よりお見舞い申し上げます

怒りもある、悲しみもある、嘆きも虚しさも悔しさも妬みも様々な悪感情があるけれども、過去をそれだけのものにしたら勿体ない。
それは間違いなく呪いであり、その呪いをかけているのは他者ではなく自分です。人は自己認識によって自らと世界を呪うんです。

だからこそ、最後に再び立ち上がり、楽しい思い出と自分が作品を描く理由を思い出した藤野は、呪われてなんかいないと自分は考えます。
振り返った過去の輝きを認識出来ている以上、そこから地続きの今現在もまた、美しいものであるはずだから。
例えそこに悲しみがたたえられていても、再び歩き出した藤野の背中は自分には美しく見えました。


以上が、僕なりの本作への感想です。
持論も多く、拙いものでしたが、ここまでお読みくださりありがとうございました。
お付き合いいただき光栄です。
自分もまた、この作品に勇気をいただいた人間の一人です。
創作者のは末席を汚すものとして、至らずとも苦しくとも、藤野のように美しく在れる存在でありたいと願っています。
そしてどうか皆様に、美しい過去と、素敵な現在と、輝かしい未来がありますように。
それでは、海月-Mitsuki-でした。

この記事が参加している募集

#マンガ感想文

20,301件

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?