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退屈を、楽しむ。


友人に誘われて、坐禅会に参加した。
地元で親しまれているこじんまりとしたお寺。
清掃が行き届いた境内には
紫陽花や桔梗などの初夏の花が咲き、
池には錦鯉が泳いでいた。

山に続くハイキングコースや
展望台への小道が整備され、
散歩がてらの拝観者で賑わう

桔梗



坐禅会は初体験。
事前に、お坊さんから説明を聴く。

まず、坐蒲(ざふ)という
円形のマカロンみたいなクッションを手渡される。
それを平たい座布団の上に置いて座る。

坐り方は、半跏趺坐(はんかふざ)という座法。
両足を両腿にのせるヨガのときの座法ではなく、
左足を右腿にのせるだけ。
簡単なのに、仏教においては最も尊い坐り方らしい。
如来坐像は、必ずこの坐り方をしているそうな。


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なるほど、これですね。納得。
でもこれ、足がかなり痛い。
なので、痛い人は正座でも構わないとのことです。
ちなみに私はできませんでした。

目は半眼に保ちます。
閉じてはいけないし、大きく開けてもいけない。
その状態で邪念を振り払い、ただ心身共にそこに坐り続けるのだそう。

退屈を楽しむ時間。

と、お坊さんがおっしゃいました。

退屈を楽しむ。
なんか腑に落ちる。


さて、本番。
お線香が燃える40分間、
何もしない、考えない時間がスタートします。
なれないと、けっこう辛いかも。
これが修行というものか。

視界に入るもの、聴覚を刺激するもの、
いろんな誘惑から逃れ逃れて
ただ、そこに姿勢を正して存在することに徹する修行。

せっかちで
普段から信号もろくに待てない私には、
なかなか良い精神修養になりそうです。

堂内は決して静かではありません。
境内から、人の話し声や砂利を踏む音、
虫や鳥の声なども耳に届きます。

その音から、
ふと何かを考えてしまいそうになります。
でも、それを追いかけないで
雑念がふうっと通り過ぎるのを待ちます。

無、という時間のなかに
身体が溶けて消えていく感覚
ここにいるようでいない感覚
これが瞑想?

くー
無意識のなかで
小さくお腹が鳴るのをきく。
昨夜は眠れなかった。
朝ごはんも食べてない。

そう思うと
空腹と眠気が一気に襲ってきます。
何度か目を閉じ、寝そうになるのを堪えます。

終わったら茶がゆを食べよう。
一瞬だけ、そんなことを思ってしまいます。

最後の方では
ちょっと人には言えないことも
考えてしまいました。

これが煩悩の正体。


姿勢や呼吸についての教えもありましたが
そう堅苦しいものではありませんでした。

意識を集中させるためと
半分の時間が過ぎましたよ、というお知らせを兼ねて
警策(けいさく・修行者の肩ないし背中を打つための棒。材質は樫や栗)で、一度だけ打たれます。

薄着だったのでちょっと痛かったです。

終わった後は、住職の説法を聴く時間になっています。
ありがたいお話を聴きながら、
お茶とお菓子をいただきます。
軽い朝食が供される日もあるようです。

少しずつ、気分が爽快になっていくのが
わかります。
なんというか、清々しい気分。
これが修行なら

学生さんも、主婦の方も、お勤めの方も
朝をこんなふうに修行からスタートさせるって
色んな意味で、ありかも、というお話です。

僧侶


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