現代俳句・短歌の「代理人」と「われ」 ―堀田季何、木下龍也の著作から
寺山の言葉から約六〇年を経た二〇二二年。SNS全盛、誰もが(それを望めば)自分の言葉を直接インターネット上に書き込み、世界中に発信できる時代である。しかしSNS特有の類型的な文体、それによる類型的思考や、匿名による憎悪・中傷・揚げ足取りの言葉も溢れ、個人の内面の「直接の伝達」表現ができる場ではないことは明らかであろう。
さて多くの俳句作者にとって、俳句は「われ」を詠むもので、一句の主体は作者自身であるという俳句観は一般的である。またその句が纏められた句集は、基本的に「われ」自身の人生の集積として読まれる。ただ実際に詠まれている俳句に固有の「われ」が表出されているかというと、季語や季感という共通認識を前提とした類想的な句の中に自分自身の感情を見出している、という面も少なくないだろう。
一方で俳句作品における現代的な主体を考えれば、全てがその通りとも限らない。俳人・歌人の堀田季何第四詩歌集『人類の午後』(2021年・邑書林)の著者跋に次の言葉があった。
これは周りの多くの句や句集が日記や自分史のように作られ読まれる俳句観に対し、特異なる態度である。「私の人格、思考、価値観」が投影されている句に、「人類の現代における一つの人格」が表れている、ということを逆から言っているとも捉えられるが、意志的に人類における普遍を優先する態度は、堀田氏の俳人としての矜持であろう。句集題『人類の午後』の収録句からもそのことは伝わる。
集中、「われ」が使われた句を、すべてではないが抜き出してみた。「わがよだれ」という形の定まらない液体が、肉体の固有性から解き放たれることで雪として固体化することの予見。個別的な「われ」が四半世紀後には全一的世界と同化している風景を現在において感受している。「死者の顏」は、過去を現在として生きていた人の面影である。それが「いつも」月の面に映っていると感じる「われ」は、過去と共に現在を生きている。未だ訪れぬ「わが」死にあらかじめ柩を用意しておく、自分の死の客観的受容。現世に執着する「私性」が「がらんどう」なのだ。これは反対にいえば、自らの死を経験できないことへの抗いともとれる。
「ほほゑんで」の句は掲出中で唯一「私性」の度合いが強いように思える。しかし自らを「阿呆」としてプールの水に身を委ねる様からは、自虐よりも我執を捨てる境地に近い。ゆえに「狗」「狐火」「兎」へと自在に自己を変身させられるのだ。
堀田氏は評論「明日も春を待つ 俳句の十年後問題」(2020年・「季論21」)で、現在から将来(十年後)への俳句界、俳人の句作の態度を次の様に分類し展望している。
なお堀田氏は自らを後者のグループとして自認しているようだ。氏のこの論での予測の核心は、「極端化」「二極化」であろうと思う。私などは、「コンテンツ」を越えた新しい俳句の展開があって欲しいとも思った。
さて堀田氏の予測の「極端化」に関連して、短歌界で注目すべき動きがある。木下龍也著『天才による凡人のための短歌教室』(2020年・ナナロク社)は、短詩型における現代的な「われ」の在り方を考えるためにも興味深い書であった。まず、近年のネットニュースのそれにも似た、「煽る」「釣る」ような書籍タイトル。短歌を始めてみたい一般読者を消費者としてしっかりと意識している。もちろん「天才による凡人のための」は逆説表現であり、その弁明は本の中でなされている。
さて木下氏はこの短歌入門書中、その実作の過程を明らかにしている。
木下氏自身が元々コピーライターを目指していたということもあってか、特定のターゲットを設定し、そのターゲットの心情を思い通りに動かすために言葉を使用するという広告的、商業的な言葉観である。先に述べた書籍タイトルも、そのようにして周到に練られた戦略があるだろう。なお、ここでは受け手側の読みの複数性については言及されていない。
木下氏はこうも述べている。「自分に向けて書くのか、他者に向けて書くのか。僕は基本的に後者のタイプですが、このふたつはどちらかを選んで絶対にこうだと決めるのではなく、短歌ごとにその濃度を濃くしたり薄くしたり揺れ動いて良いものだと思います。」
木下氏の短歌における「われ」の在り方は堀田氏とは質的に異なるものの、「自分に向けて書く」濃度が低いという面では、両者の類似はあるようだ。
さて、木下氏はこのような方向を押し進めて、依頼者から寄せられた「お題」を受けて依頼者一人に向けた短歌をつくる短歌の個人販売プロジェクト「あなたのための短歌一首」も行っている(二〇二一年、『あなたのための短歌集』刊行)。例として「あなたのための短歌展」(『天才による凡人のための短歌教室』収録)より一組、引用してみる。
お題には、木下氏に悩み事を打ち明け、それを短歌にしてもらうことで自分の気を晴らそうという種類のものもある。掲出の一首からは、木下氏から出題者への「今は棺だけど、どこへでも行ける舟なんだよ」という励ましが込められているだろう。
俯瞰してみれば、お題自体が一つの表現であり、そこから生まれた短歌は、出題者と歌人木下龍也の合作であるという考え方もできそうだ。これは木下氏の「われ」が希薄であるからこその新しい共作の形であるといえるかもしれない。
この「あなたのための短歌」は、現代人の需要と歌人の供給能力との関係から生まれた新たなビジネスモデルで、詩歌の新しい社会的役割の提示であり、その可能性を実際に追求していることは評価されるべきと思う。その一方で、作られた短歌は、木下氏の言葉にされた時点でお題を出した人のなまの心情から、少なからずズレが生じているはずだ。もしそれを〝この歌は私の気持ちをそのまま言葉にしてくれた〟と思いこむならば、危うい。短歌の購入者が、そこからもう一度自分自身の内面と向き合って自らの言葉を紡ぎ出すきっかけにならなければ、自己表現のアウトソーシングになりかねない。現代の詩の「代理人」に、依頼者の個人言語を受け渡してしまうことにならないか、いらぬ心配をしてしまう。
木下氏自身はあとがきで「木下龍也を信じるな」と書いている。短歌の職人である木下氏を絶対化して崇める読者への忠告であろう。
さて再び俳句に話を戻そう。昨年十一月、俳人・評論家の筑紫磐井氏を講師に「季語は生きている」と題して第45回現代俳句講座(現代俳句協会主催)が開催された。講演後の、赤野四羽氏、赤羽根めぐみ氏を交えた質疑の模様が、インターネットの「BLOG俳句新空間」で文章として公開されている。
「季題」や「題詠」というと作者の個性を束縛しそうで、自由な創作活動にとっては何となくネガティブな印象もある。しかし、「究極の名句」が「膨大な類想作品」の中から誕生すると思えば、成立過程として決して否定すべきものではないだろう。俳句作者の実感としても、題によって「われ」を離れることが創作にとってプラスに働くことも多い。しかしその一方で、他者から出されたお題に極端に頼りすぎることも、自立した一人の俳句作家とは言えないだろう。
堀田氏は先の第四詩歌集『人類の午後』と同時に第三詩歌集『星貌』を刊行している。この著者跋では、「自在季自在律の句集」と述べているが、無季や自由律の実験的な句が多く収められており、それと同時に「境涯性の濃い」句群もある。この詩歌集自体が問いであり、「俳句とは何か」また「私とは誰か」というお題のようなメタ句集のようにも読める。句を引いてみよう。
われも言葉も社会も、一個人の創作物において本来切り離し得ないはずだ。そして詩歌における「われ」の濃度や、読者との関係の仕方は、その作品の意味内容を超えて滲み出て来る。堀田氏は俳句一句を推敲するとき、「われ」の在り方も推敲し思索しているのだろう。「人類」という大主題を詩歌に詠むには、「われ」という小主観から出発しなければならない。堀田氏も木下氏も、「われ」を突き詰めた先に、それぞれの方法で誰かの「代理人」となり、複雑化する現代を作品化しようと試みているのだろう。
(コールサック109号より転載)
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