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パンダ娘の憂鬱 後編
「今度動物園に行こうと思うんですけど、一緒に行ってくれませんか」
中谷から、先週また声をかけられた。動物園?新しい。待っていた気がした。
「いいですね、行きたかったんです、動物園」
思わず答えてしまっていた。
動物園、ずっと行きたかった。パンダ娘と呼ばれていたのに、県内でやりたいことのほとんどが事足りてしまう地域で育った千尋は、一度もパンダがいる動物園に行ったことがなかった。長野では動物が見たければ高地か地獄谷に行けばサルを見ることができた。
パンダを見たいと思ったのは、一度や二度ではない。この世で唯一共通点を持つ哺乳類、そう思えるくらいパンダが好きだったし、いつかは会わなければいけない、パンダも待っている、そう思っていたが、就職して東京に住んでいるのに、上野までが遠く感じていた。
ファンデーションを塗って、顔を明るめにメイクするといつものメガネをかけた。
また、嫌われるだろうか。でも今日は観覧車に乗るわけでも、夜の食事にいくわけでもない。それに嫌われてもいい、パンダに会えればそれでいい、そう思うと中谷と会うのが苦ではなくなった。
動物園が開園するのは九時半だ。開園する三〇分前の九時に動物園前のカフェで待ち合わせをした。
「ホットコーヒーとサンドイッチを二つずつ」
カフェで朝食を食べながら開園を待った。中谷は思っていたより照れ屋で、サンドイッチがおいしいとか、コーヒーが熱いとか、何の発展もない話ばかりをして時間を過ごした。
「そろそろ行こうか」
千尋から誘った。
開園五分前に動物園の門の前に着くが、すでに長い行列ができていた。
「すごい、やっぱりシャンシャン目あてかなあ、年末には中国に帰っていなくなるっていうし、今のうちですね、見ておくのも」
中谷がやけに積極的に話かけてくる。
のそのそと前の人が進むスピードに合わせて前進する。スピードは遅いがパンダに会えることを思うと苦ではない、チケットを購入してチェックカウンターを過ぎると前に並んでいた人たちが一斉にダッシュをした。引かれるようにその人たちの後について早足になる。その光景がなんだかおかしくて、中谷と顔を見合わせて笑った。
パンダ園の入り口は早くも人だかりで、入り口にいた人たちが全員ここにいるんじゃないか、と思うくらいだった。
パンダ園の入り口は、混雑を想定して、ジグザグに並ぶようにロープで迷路みたいに進路が作られている。そこでも、中谷はポスターを見て笑ったり、パンダはかわいいなどというような、子供が話すようなことを話して時間を過ごした。
ひとつだけ感心したのは、中谷が異様にパンダに詳しかったことだ。
中谷は顔を見るだけで、リーリーやシンシン、シャンシャンの区別がついたし、生体についても詳しかった。千尋は何となく中谷が自分のこともわかってくれるような気がして、パンダにお願いするような気になった。
少しずつ前進し、いよいよパンダ園に入る。手前から四部屋くらいがガラス張りの小屋だが、そこにはパンダの姿はなく、飼育員さんが掃除をしている。前をうかがうと、もっと前方の庭の方で歓声が上がっている。もうすぐ会える。生まれて初めて見るパンダ、千尋の心拍数が上がる。
屋根付きの小屋を抜けると、広めの庭が広がっていた。
ハンモックの上で、少し小ぶりのパンダがあおむけになって笹を食べている。“シャンシャン”千尋は心の中で叫んだ。
“シャンシャン”
もう一度叫ぶ。シャンシャンが笹を食べながら自分の顔を見ている、千尋は目が合った気がした。
ゆっくりメガネをとった。
“ほら、見てシャンシャン”
そう話しかけると、シャンシャンは手を止めてじっと千尋の顔を見た。ほんの数秒がとても長く感じられた。
“私もなかまよ”
そう言うと、シャンシャンが笑って手を振った気がした。感動的な出会いだった。
心臓は爆発しそうなくらい高鳴っていた。もっと早く来ればよかった、シャンシャンともっと早く出会いたかった。でも、今からでも関係を作れば間に合う。
パンダ園を出て、まっすぐ歩くとカワウソが二匹いる小屋につく。シャンシャンのことが頭から離れず、カワウソを見ても大きなネズミにしか見えない。カワウソは二匹で体の大きさにしては、小屋が大きすぎる、体の大きさからするとシャンシャンの庭はまだ広くてもいい気がした。
「ねえ、もう一回並ばない?シャンシャン」
中谷が声をかけてきた。
「いいの?」
「いいっていうか、こちらこそ、いいの?」
振り向くと、中谷が真剣な目で千尋の目を見ていた。あまりにも真剣な目をしているから、何となくおかしくなって吹き出すと、中谷も大声で笑いだした。
「行こう」
今度は中谷が声をかける。中谷が一瞬手を出しそうになってひっこめたのがわかった。
千尋が思い切り、中谷の腕をつかんだ。
中谷が照れて下を向いた。ふっと風が吹いた気がした。
いきなり懐かしい場面が頭をよぎった。そうだ、あの時もこうだった。観覧車の中で彼は照れてたんだ、ふっと風が吹いた気がしたのは私の目を見て笑ったからじゃない、照れてはにかんだからだった、急にそんな気になり、いきなり一〇年間の呪縛が解けた気がした。
そっとメガネをはずして、ケースに入れバッグにしまう。中谷の顔を見る、何も言わない。
パンダのおかげで幸せになれる、そんな気がした。
中谷はそんな気も知らず、パンダのうんちくの続きをしゃべっていた。
了
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