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パンダ娘の憂鬱 前編

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 朝、教室に入るなり、顔を合わせた美奈絵がすぐに気が付いて、ねえねえとわざわざ周りの女子を集めると、集まるなり千尋の顔を見て一斉に笑った。友達だと思っていた真由も笑っているからちょっとショックだったが、前日の夜、鏡を見た時にこの程度のことは予測できていたから、落ち込んで気持ちを引きずるほどではなかった。
 前日の夕方、母親と散歩をしていると「ねえ見てきれいな夕日」。川沿いの道で急に話しかけてきたから、振り返った際に足を取られて転んだしまった。転んだ拍子に硬いもので顔面を打ち、パンダみたいに目の周りが内出血して黒くなったのだった。
 それ以来、千尋は学校の友人たちから「パンダ娘」と呼ばれるようになった。そのニックネームはしだいに定着し、ケガが治った後も変わることはなかった。内出血が消えないうちは嫌だったが、すっかり完治すると「パンダ娘」っていい名前だなと思って、千尋はそう呼ばれることに悪い気はしなかった。
 二十五歳になった千尋は鏡を見ながら、アルバムといっしょにしまっていたはずの小学校六年生の時の思い出を辿っていた。
 千尋が育った長野県の奥地の町には一〇近くの中学校があったが、いくつかの小学校から生徒が集まっていっしょになるのは、町の真ん中にある大きな中学校くらいで、ほとんどの中学校は小学校からそのまま持ち上がるため、中学時代は小学校の時とほぼ同じ顔触れのまま三年間を過ごす。千尋は中学時代も三年間、パンダ娘と呼ばれて過ごし、かわいいニックネームが付く原因になったあの時のケガに少し感謝もしていた。
 だが、目の周りを黒くしたおかげでいい思いをした時期は、中学で終わりを告げる。
 殴られたり、何かにぶつけたりしたわけじゃない。高校生くらいから目の下がケガをしていなくても黒くなった。クマが目立つようになったのだ。クマは歳を追うごとに、色も濃くなるし、疲れた時なんかは特に目立つようになり、二十五歳になるとそれを見てパンダ娘と呼んでくれる友達もいるはずがなかった。 
 父親の顔を思い出す。父親の目の下には疲れていなくてもクマがあり、小さいころからそれを見ていた千尋は不自然さを感じなかったが、自分の顔となると違和感はある。父親の遺伝、しょうがないとあきらめるべきか。
 ファンデーションだけでは隠しにくいので、明るい色でごまかすような化粧をした。化粧をしている間は何とか目立たなくはなるが、思い出すと少し気が重い。

 千尋は高校に進学するとメガネをかけた。中学の友達はそれぞれの道を歩んでいた。千尋が進学した高校には、同じ中学校から進学した者がもう一人いたが、馴染みのない男子で、普段話もまんろくにしたことがない生徒だった。パンダ娘なんていうかわいいあだ名で呼んでくれる友達もいない。千尋は目がさほど悪いわけではなかったが、クマを隠すために、ほんの少し度が入った黒縁の細めのメガネをかけた。メガネのおかげでクマが目立たなくなると、急に男友達が寄ってきた。
 すぐにボーイフレンドができた。遊園地に行き、観覧車に乗った時にボーイフレンドと二人だけになって、ちょっと気まずい雰囲気になった。沈黙が続く、千尋は窓から外を見ていたが、ボーイフレンドは何を考えたのか、千尋のメガネをとってしまった。ボーイフレンドの目を見返した瞬間、ボーイフレンドが「あっ」と声をもらして目をそらしたことを忘れない。急に心と身体に隙間風が吹いた気がした。
 その時、会話もなく観覧車を降りたのは、メガネの下に隠していたクマを見られたからだ、抱いた疑念は大人になった今も消せずにいた。

 観覧車事件から一〇年も過ぎているのに、今更気にするのもおかしいとは思うが、社会人になって会社勤めを始めると、薄く水色っぽい色のついたサングラスみたいなメガネをかけるようになった。レンズに色は付いているが薄いからか、仕事中に何かを言われたこともないし、透明なブルーなのに目の下のクマをごまかすには十分だった。レンズに度はほとんど入っていないから、かけてもかけなくても目で見える景色はほとんど同じだが、心が見ている景色は違う気がした。
「今度、食事でもどうですか」
 高校生の時以来だ。男性に誘われたのは半年くらい前のことだった。
 数社が合同で開いた新製品の発表会が終わった後の打ち上げで、A社のエンジニアの中谷という社員から声をかけられた。それまでも何度も仕事で顔を合わせていたので、プライベートで誘われるとは思ってもいなかったが、誘われて悪い気はしなかった。
 いきなりの誘いに驚きながらも、こうやって交際がスタートするのかとは思ったが、何となくごまかしてその場を濁していた。
 高校生の時に観覧車での出来事以来、大学でもボーイフレンドは作らなかったし、今後も一生男性と交際することはないだろうと思っていた。何を怖がっているのか、怖がっても仕方がないのに、それ以上深く自分に問いかけることもしなかった。

後編へつづく

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