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海と僕をつなぐ板        



 私は息子のことを信じてあげることが出来なくなりつつある。

 息子は八歳、小学二年生だ。まだまだ親が全力で守らなければいけない年齢なのに、息子の言動を理解することができず、他人の目で見てしまうことがある。もちろん、息子を愛していることに変わりはない。二年前に病気で妻を亡くした私にとって息子は生きる希望だ。

 半年ほど前だった。小学校の入学式前に買ってあげた学習机が変だと言い出したのは。

 二年生の夏休みに入り、毎日近所の子供たちと遊び疲れて帰ってきても私が夕食を用意するまで自室で動植物の図鑑を夢中になって見ている。生き物の観察が大好きなので一人でずっと見ていて、男親としてはあまり手がかからないので助かっている。 手際の悪い私は時折、少しだけ手のこんだ料理を作ろうとするとことのほか時間がかかってしまうのだが、それでも息子は私が呼びに行くまで夕食を忘れて何時間でも図鑑に没頭している。

 ある時、出来合いではなくひき肉からハンバーグを作ろうと苦戦していると、手足をばたつかせ興奮して部屋から出てきた。

「お父さん、勉強机が変なんだ。見に来て」
と、言ってきた。

 お腹がすいて文句を言っていると思った私は、
「ゴメン。もうちょっとだけ待って。美味しいハンバーグ作るから」

 と、その時の息子にちゃんと対応しなかったが息子は、

「勘違いかなぁ。もう一回見て来る」
 それきり、その日は夕食が出来てもそのことは何も言わなかった。

 一週間後の日曜日、洗濯物を干していると息子の部屋から何かを叩く音が聞こえてきた。洗濯かごを持ったままドアを開けると息子が私の日曜大工のハンマーを持って椅子の上に立ち、学習机の上部に備え付けられている本棚を叩いている。

「何をしているんだ!」

 子供らしく天真爛漫な喜怒哀楽をみせる息子だが、この行動は私を凍りつかせた。「お母さんが、これにしようって選んだ机だぞ。何をしているんだ?」
 ハンマーで叩いても八歳の子供の力では頑丈な学習机はびくともしていないが傷はかなりついている。両手でハンマーを持ち、肩で息をしながら息子は、

「お父さん、この机の上の板。ここだけ変なんだ。だからこの本棚を取って、この一枚の板だけ外してほしい」

 机の天板を涙目で示す息子を後ろからそっと抱きしめ、ハンマーを持っている両手を上から包み込むと拳の力が消えてハンマーが床に落ちた。

「この天板が変なのかい?どう変なの?明が外して欲しいと言うなら外してあげるよ。どういう風に変なの?」

「お父さん、この板に耳を当ててみて。この上の一枚だけなんだ。変なのは」

 机の天板は厚さ三センチで大きさは奥行きが六十センチ、幅が一メートルでそれほど大きい物ではない。天板に耳を当てる。何も感じない。私の顔を見て息子も耳を当てた。

「止まっている。今は止まっている。でもお父さん、この板の中でときどき水が流れる音がするんだ。水だけじゃなくて風が吹いている音がすることもあるんだよ。でさ、水の音は波の音なんだ。そしてね、波の時も、風のときも必ず両方から波が流れてきて、両方から風が吹いてくるんだ。気づきにくいんだけど。でもね、図鑑を広げて両腕を机に置いて読んでいるとね、ぶるぶるっとするんだよ。右から波が来て、左から波が来て真ん中で波がぶつかり合う音がするんだ。風も右から吹いてきて、左からも吹いてきて真ん中でぶつかって消えるんだ。それが、腕に伝わってくるんだよ。本当なんだ、お父さん。この板の中で何かが起こっているんだよ」

 息子がこれほど強く、激しく私に訴えてきたことはこれまでなかった。新しい図鑑が欲しくてダダをこねて泣くことはあるが、それとは全く違うので私はどう対処したら良いのかうろたえてしまった。

「外してどうするの?」
なんとか平静をよそおって聞くと、

「波の音がした時に振ってみたいんだ。僕が振ると波はチャプンチャプンってなるのか、試してみたいんだよ」

 右手を上げると左手を下げ、左手を上げると右手を下げて、大きな板を上下に振るような動作をしながら説明したが、その時はもう涙目ではなく不思議な物を見つけたときのキラキラした目になっていたので私は少し安心した。

「明、外すのは簡単だよ。でもね、この板は厚さが三センチもあるだろう?かなり重いと思うよ。さっき明が板を上下に振る仕草をしたけど実際は重くて明には持てないと思う。だからこうしようよ。この三センチの横っちょの真ん中に一センチの穴を開けよう。で、普段は同じ一センチの太さの棒で穴をふさいでおくんだ。波の音や風の音がしたら棒を外してみたら良い。どう思う?」

「うん。それやろう、お父さん」

 私の提案に賛成し、すぐに工具箱を置いてある玄関に走ったので私も後を追い、ドリルと新聞紙を持って部屋に戻ってきた。板の削りかすを受け止めるために新聞紙を机の下に敷き、穴をあけた。
 奥行き四センチほどの穴をあけると結構な量の削りかすが出てきた。ただの普通の板だ。 息子は穴の奥を真剣な目で見つめ、鉛筆を取り出し穴をつついて感触を確かめ、

「板しかないや」
と、小さくつぶやいたがすぐに、

「ペットボトル持ってくる」
と、台所に行った。私は直径一センチの丸い棒を七センチに切ってその穴へ差し込んだ。

 それからしばらくは何も起きなかった。

「穴開けちゃったからかなぁ。何かが漏れてしまったのかなぁ」
と、残念そうに話すが私はほっとしていた。

 二ヶ月ほどした頃、お風呂に入っていると、

「お父さん、風が出ている。早く早く」
の声にタオルを腰に巻いて急いで出たが何も変わりなかった。

 「ごめんなさい。久しぶりだったのにあっという間に終わっちゃった。でも暖かい風だったよ」

 頭をなでてお風呂に戻った。その後も料理をしていたり、庭に水やりをしている時など何度かこのようなことがあったが、いつも私が行くとその現象は終わっていた。

 息子が四年生になった春、ラインが来た。「お父さん、ついについにやったよ。水が出てきたんだ。ペットボトルにいっぱい入れたよ。海の水だよ。しょっぱいんだ。早く帰ってきてね」
興奮が伝わってくるラインに、ほとんど忘れかけていた私もドキドキして帰った。

 家に着くと玄関で迎えてくれた息子はニコニコしながらいっぱいに入っているペットボトルを目の前に出した。

「波のぶつかる音と振動がして、すぐにペットボトルを開けてフタの棒を外したんだ。初めは上手く入れられなくて床にこぼれちゃったけど、これにいっぱいになった頃に出なくなったんだ」

 キャップを開けて手のひらに垂らし舐めてすぐにしょっぱい顔をした私をみて、「ね、言ったとおりでしょ」
と、笑っている。
「ほんとだ。不思議なことってあるんだね。お父さんじつはイマイチ信じてなかったんだ。でもこれで信じるよ」

 息子は、ヤッターと後ろ向きにピョンピョン飛び跳ねながら下がって行った。

 服を着替え、夕食を作ろうと台所に行くとシンクの横に塩が入った調味料入れと、水が入ったコップが置かれていた。
なんだろうと軽く口にするとしょっぱい。コップを持ったまま息子の部屋に入り、

「これはなんだ?どういうことだ?」
私の顔はかなり恐ろしい形相をしていたのだろう。

「それは作ったんだよ。板から出てきた海の水と味がどれだけ違うのか試したかったんだ。だけど塩の量で味が変わっちゃうことに気づいて止めたんだ。でもペットボトルの中の水は本当にここから出てきたんだよ。ホントに本当だよ。お父さん、信じてよ」

 私は息子のことが信じられなくなっていた。

それでも、私に嘘をつく意味がないことも分かっているが、理解できなくなっていた。

 私の怒りと悲しさが混ざった顔は息子にも伝わったのだろう。部屋を出るとドアの向こうから泣き声が聞こえたが私は部屋に戻らなかった。

 それ以来、私と息子の関係はぎくしゃくし始めた。夕食時にテレビで笑いながらも、休日のドライブでヒット曲を一緒に唄っても、心の中は一歩引いていることをお互いに気づいていた。

 ある日曜日、お昼ご飯をたべていると息子の様子がどこか落ち着かないことに気づいて、

「明、どうしたの。なんか変だよ」

 私に声をかけられてかえって吹っ切れたように、

「お父さん、買ってほしい物があるんだけど」

「何?言ってごらん。明が図鑑以外に買ってほしいって言うなんて珍しいからお父さん、興味があるよ。何がほしいの?」

 息子の顔がぱっと明るくなった。

「あのね、録音できる機械がほしいんだ。大きくなくていいんだよ。僕が持てるくらいの小さいのでいいんだ」

 息子のこたえは意外な物だった。

「へえ?何を録音したいの?」

「うん。あのね、鳥や虫の泣き声とかを録音したいんだ。図鑑を見ていても声は分からないでしょ。だから自分で録音して聞いてみたいんだ」

「鳥や虫の声なら、お父さんのパソコンで検索したら多分出てくると思うよ。図鑑のどの鳥か検索してその鳥の声が聞けると思うけどな」

 息子は力のある強い目で私を見つめて、

「違うんだ。自分で録音したいんだ。近くの原っぱや公園や、ちょっと遠いけど学校の向こうの山の中にいる鳥たちの声を録音して、それがなんの鳥なのか知りたいんだ」

「そうか。図鑑の中の生き物じゃなくて、この廻りにいる生き物たちを知りたいんだね。それで自分で録音したいんだね。良いよ、買ってあげるよ。最近はICレコーダーって言って、小さくても高性能の音を録音できるみたいだよ。明が手に持って公園や山を走り廻っても全然疲れないほど小さいものがあるよ。値段もそんなに高くなかったと思うんだ。お父さん、電気屋さんで見たよ。ご飯食べたら買いに行こうか?」

「うん。ありがとう、お父さん。ヤッター」

「明が笑うとお父さんも嬉しいよ。でも、たまにでいいから貸してね。たまぁにだけど会社に講師の先生が来ることがあるんだ。その時は録音したいから貸してね」

「うん。ヤッター」

 そわそわ落ち着かなかった息子は、急にもりもりとご飯を食べはじめたので、見ていて気持ちよかった。食事を終え、珍しく片付けまで手伝って一緒に電気店に行くと店員に聞き、レコーダーのコーナーへ走っていった。

 店員の勧める商品に決めると息子は、

「そうだ、お父さん。もう一つお願いがあるんだけど。あのね、マイクを付けたいんだ。お医者様が持っているような聴診器みたいなマイクを。テレビで見たんだけど、あれだとね、木が水を吸い上げる音が聞こえるんだって。お願いお父さん」

「ああ、いいね。面白そうだね。そのテレビはちょっと前にお父さんと一緒に見たんじゃないかな。お父さんも覚えてるよ」

 はしゃぐ息子を見ながら店員がマイクを持って来た。清算している間に、

「説明書が難しい漢字ばかりだからオジさんが説明するね」
と詳しく話す事を夢中になって聞いている。使い方を確認して店員の声を録音し再生して、

「ばっちりだよ。オジさん、ありがとう。結構簡単だね。お父さんにも後で使い方教えてあげるよ。会社で使うときもあるんだもんね」

 帰りの車の中で息子は本当に嬉しそうだった。歌を唄って録音しては再生し、一緒に歌おうよと言ってはまたそれを再生して手を叩いて笑っていた。これほど屈託なく笑う息子は久しぶりで私も心から笑った。

 それから数ヶ月した夕食後、私が洗い物をしていると部屋から出て来た息子が、

「お父さん、この声って聞いた事ある?」

 と、流しの後ろの食器棚のカウンターにICレコーダーを置いて再生ボタンを押した。その声は私もあまり聞き慣れない声で「ギー、ギーギー」と、鳥とは思えない全く美しくない声だった。

「聞いた事無いなぁ。どこで録音したの?」

「学校の後ろの山だよ。今日は課外授業でみんなでバスに乗って、山に自然観察に行ったんだ。その時に録音したんだけど。変な声だよね」

「うん、鳥じゃないかもしれないね。虫かもよ」

「そうかぁ。そうだよね。虫かも知れないね。じゃぁ、先にお風呂入るね」

 洗い物の横に、翌日の食事の為に下ごしらえする材料が置かれているのをみて、時間がかかると判断したのだろう。洗い物を続けているとICレコーダーに赤いランプが点灯している事に気づき、人差し指をズボンでぬぐいスイッチを押すと押し間違えたのか、巻き戻されたようにさっきとは違う鳥の声が聞こえて来た。それは美しい声だった。その鳥の次はまた別の鳥の声が聞こえて来て私は「これは中々いいBGMだな」と、そのまま流しながら聞いていた。鳥だけではなく、虫や、なぜか車の走り去る音や、無意識に押してしまったのか授業中の音が入っていて、担任が息子の友人を叱る声が入っていて思わず声に出して笑ってしまった。友人たちと歌っている音も入っていて、これは良い物を買ったなとほくそ笑んでいると突然、激しく波がぶつかり合う音が流れて来た。あまりにも至近距離での録音のようだったので私は思わずレコーダーに向き合ってしまった。その音はほんの一〜二分で終わったが、しばらくすると風が激しくぶつかり合う音が聞こえて来た。台風の中を外に出て録音したのかと思うような音で驚いたが、このレコーダーを買ってから台風は来ていないことに気づき安心した。その音もすぐに消えてまた鳥の声が流れて来た。

 お風呂から出て来た息子が、

「その鳥も良い声でしょ。これもあの山だよ」

「うん、良い声だね。でも、明。凄い波がぶつかり合う音が入っていたよ。風の音もね。あまりにも臨場感がありすぎるからすぐ近くまで行って録音したのかなってお父さん一瞬ビックリしたけど、あんな台風は無かったもんね。気づいてからほっとしたよ〜。テレビの音を録音したのかな?」

 その時、息子の体が一瞬硬直したことに私は気づいた。何かあると思ったがあえて聞かなかった。聞くのが怖かったのかも知れない。

「そう、そうなんだよ。テレビの音を録音したんだ。急だったからね、あっという間に終わっちゃってたでしょ」

「うん、凄く短かったよ」

「じゃあ、僕、寝るね」

 この時間に寝る息子ではないのは知っている。やはり、あの日の事がまだ引っかかっている。


 小学校を卒業し、中学の学生服を買おうと近くのホームセンターに行くと学習机のコーナーが目に入った。この一〜二年で急に背が伸びた息子を見て、

「そうか。学生服だけじゃなくて机も買ったほうがいいよね。今のは小学校に入る前に買ったものだからかなり窮屈になっているんじゃない?ごめん。お父さん、最近は明の部屋に入ってないから気づいてなかったよ。これからもどんどん大きくなるだろうから大きいサイズの机を買おうか?」

 息子の横顔が一瞬で硬直したのを見て、あの日の事を鮮明に思い出した。忘れようとしても忘れることは出来ないが、記憶の奥にしまいこみ思い出さないようにしていた。あの日から二年が過ぎてもお互いに心の中ではどこか覚めた目で見ているところがある。私が息子の部屋にできるだけ入らないようになったのもあの日からだ。

「いいよ、お父さん。机の足に漫画の本を入れて高くしてあるから大丈夫だよ。それにあれはお母さんが選んでくれた机でしょ。まだあの机でいいよ」

 精一杯冷静に話しているつもりなのだろう。しかし、息子の顔は引きつっていて怯えているようにも見えた。私たち親子にとってあの机のことはまだ触れることが出来ない話題だった。このわだかまりはいつの日か消える事があるのだろうか。私と目を合わさずに体ごと別の売り場を見ている息子に私も努めて冷静をよそおって、

「そうか。明がそういうならまだいいか。それにしても漫画本で高くしていたのかぁ。でも、漫画本じゃ横幅があるから邪魔だろう。レンガを買って行こうか。レンガを横に二〜三個積んだら安定するし邪魔にもならないと思うよ」

 ほっと安心したのが背中を見ていても分かった。くるりと私を向いて、

「うん、そうしよう。レンガと学生服とお菓子を買って帰ろうよ、お父さん」

 あえて子供っぽくみせているところに、息子の老成さが見えて私は辛かった。やっと小学校を卒業したばかりなのに、変に顔色を伺うようにさせてしまった。あの日、部屋で泣いていた息子の元に行き抱きしめてあげればこんな事にはならなかったのに。

 ホームセンターを出てすぐに家には帰らず、少し遠出をして海へ行こうと言うと息子は凄く喜んだ。全く演技のない素直に喜ぶ姿が嬉しかった。三月の海は少し肌寒かったが、久しぶりの海には私も息子も心からはしゃぐ事ができ、冷えた体に帰りのラーメンはことのほか美味しくてつい数時間前の事を忘れて帰ることができた。

 家に着きレンガを持って息子の部屋に入り、私が机を片側ずつ持ち上げて息子がレンガを入れた。

「良い感じ」

 と、息子は笑っているが遅かれ早かれこの机では窮屈になり、買い替える時にどう切り出したらいいのか考えると憂鬱になった。

「じゃあ、お父さんお風呂に入るよ。一緒に入るかい?」

「うん。先に入ってて。すぐ行くから」

 風呂場に向かいながら、息子のベッドの横にある本棚に五百㎖のペットボトルが五本、二ℓのペットボトルが二本置いてあったのを目の端で私は見ていて、それらには全て透明な液体が入っていたことを考えていた。そしてそのペットボトルには白い紙が貼ってあった。遠目でよく見えなかったが書かれていた字は日付けだったように見えた。

中二にあがってすぐ、息子が
「お父さん、勉強机買ってほしいんだけど。さすがにもう、あの机はキツイんだ。足が入んないんだよ」

 唐突だった。朝ご飯を食べているとご飯のおかわりを入れながらためらいも無く言ったので私はドキンとした。確かに息子はクラスでも背が高いほうなので、あの机ではキツイだろう。私もいつ言い出そうかと迷っていたが言い出せずにいたので、拍子抜けのような明るさに戸惑ってしまった。

「そうだよね。小学校一年生の時から使っているんだもんね。そりゃぁキツイだろう。買おう、買おう」

「ありがとう。で、もうホームセンターで見つけてあるんだ。値段は一万二千円。あのホームセンターではそんなに高いほうじゃないんだ。お父さんの車には乗らないと思うけど軽トラックを無料で貸してくれるって。今度の土曜日に行ってくれる?」

「いいよ。準備がいいね」

 テーブルに着いてご飯を食べている息子に、「じゃ、その時に今使っている机をそのホームセンターに処分してもらおうか。ただじゃないかも知れないけど、机買ったら安く処分してくれるはずだよ。お店で買って、新しい机を部屋に入れる前に外に出しておこう。後にすると狭くて出しづらくなるからね」

 息子の箸が一瞬止まったように感じた。

「お父さん、あの机はあのままにしたいんだ。あの机は必要なんだよ。僕、今、科学部でしょ。色んな実験道具がこれから増えて来ると思うんだ。それらを置くのにあの机は必要なんだ。部屋が狭くなる事はあまり気にならないよ。どっちみちどこかに道具を置かなきゃいけないんだしね。だからあの机は丁度いいんだよ」

 有無を言わせないような話し方だった。私も何がなんでも処分したいわけじゃない。息子が必要と言うのならそれでいい。だが、そのこだわりに私は少しだけ不気味さを感じた。

 その週末土曜日にホームセンターで息子が決めていた机を買って軽トラックで運んだ。私の想像ほど大きい物ではなかったので、これなら前の机を置いたままでもそんなに部屋が狭くなることはないと思ったが、息子もそれは計算していたようだ。机の天板の大きさが頭に入っているようで、今の机を入り口の近くに移動して新しい机と場所を入れ替えたらベッドにも邪魔にならずに、例え友達が来てもすんなりすれ違う事ができるはずだと、助手席の窓を全開にして風でうるさく動く髪を手で押さえながら説明した。

 家に着き、車中で息子が説明した手順で机を入れた。まず初めに今の机を一旦廊下に出し、それから新しい机を部屋に入れた。そして、今までの机を入り口の近くに移動し、レンガを今までの二個から三個にして机の足の下にセットした。

「じゃあお父さん、軽トラックを返してくるよ」
 そう言って私は部屋を出たが胸の鼓動が激しくなっていた。

 本棚にカーテンがかけられていたが部屋を出る間際に開けてあった窓から風が吹き、一瞬だけ本棚の中が見えたのだ。そこには以前よりもペットボトルが増えていて、小さい五百㎖が五十本以上、大きいペットボトルも三十本以上はあったようだった。あれは一体なんだろうか。私は一体いつになったらあれの事を聞けるのだろうか。私たち親子にとってお互いに心を開く日は来るのだろうか。私は胸が苦しくなった。

 数年が経ち高二になった息子は科学部の部長になり、帰りも遅くなってきたが日曜日は夕食を作る手伝いをするようになっていた。「今日はカレーにしようよ。僕、玉ねぎを切るよ」

 自分から言い出して切っていると涙を流しながら、

「玉ねぎを切っても涙が出ないようにするには玉ねぎと反対の成分を包丁から出るようにすればお互いに成分を消し合って涙が出なくなると思うんだけどなぁ。お父さん、トポロジーって言葉知ってる?」

 ジャガイモの皮をむいていた私は、
「トポロジー?初めて聞いたよ。何語?」

 流しの扉に下がっている布巾で目を拭きながら、
「何語かは分からないけど、数学用語で、日本語で言うと『位相幾何学』って言うんだ」

「位相幾何学?日本語でもむつかしいね。どういう意味?ま、聞いてもわかんないと思うけどね」

「トポロジーって言葉が面白くて、図書館でたまたま手にしただけだから僕も詳しいわけじゃないけど。位相は『周期的に繰り返される一周期のうちのある特定の局面』って本に書いてあったんだ。意味分かんないまま読んでたんだけど、面白いなあって思ったのが『位相』に対して『逆位相』というのがあってさ、その逆位相は普段の僕たちの生活に生かされているんだって」

「普段の生活に?そのトポロジーってものがかい?」
私が数学が大の苦手であるということは息子もよく知っている。

「うん、そうなんだ。お父さんが『因数分解って社会に出てからなんの役にもたってない』って言ってたけどさ、僕たちが知らないだけで何かの役にたっていると思うんだ。さっきの逆位相ってさ、高速道路で騒音がひどいところで応用されているんだって」

「え?騒音対策に?」
 私はジャガイモを流しに置いて息子に向き合った。

「そう。高速道路でね、騒音と真反対の周波数を送る事で、お互いに音を消し合って近所に住んでいる人たちを騒音から救っているんだって」

「明は数学者になりたいのかい?お父さんとは全然違うね。なんだか明が眩しいよ。お母さんも天国でビックリしていると思うよ」

「ううん、数学者になりたいわけじゃなくて科学者になりたいんだ。だから科学部に入ったんだよ。科学で人の役にたつものを作ってみたいんだよ」

「そうかぁ。お父さんに出来る事はなんでもやるよ。と言っても一生懸命に働いて大学に行くお金をためることくらいしか出来ないけどね」

「お父さんありがとう。僕、科学者になるよ。科学者になって親孝行するよ」
息子がそんなことを言ったのは初めてだったので私は胸がつまって何も言えなくなった。

「お父さん、ほんとだよ」

 小さくつぶやいた息子の声が私は嬉しくて仕方なかった。

 ある日、買って欲しい研究器具がある。値段は高くないけど大きいので車で連れていって欲しいと言われ、リビングで待っているといつまでも部屋から出て来ないのでノックして入ると驚く光景がそこにあった。

 あの天板から勢いよく水が噴出して、部屋は水浸しになっていて、十本ほどある二リットルのペットボトルは全ていっぱいになっていた。

「お父さん、水の勢いが止まらないんだ。空のペットボトルはもうそれしかなくて部屋中が水浸しになっちゃってごめんなさい。でも、こんなことは初めてなんだよ。いつもはすぐに止まるのに、なぜか今日は止まらないんだ。どうしよう、お父さん」

「待ってろ」

 そう言って隣の風呂場へ走りながら私は激しく涙が溢れて止まらなかった。

 「本当だったんだ。ホントのことだったんだ。この数年間、私は息子の心をひどく傷つけてきてしまった。本当だったんだ」

 天板から激しく出てくる水をポリバケツで受け止めながら泣いている私を見て息子も泣いている。ホースの先を湯船に持って行くように言って私はホースを天板の穴に当てがった。

 どれほどの時間が過ぎたのだろう、激しく噴出していた水の出もおさまり、やがて止まった。舐めてみるとしょっぱい。穴の中はもはや板しか見えなかった。

「湯船いっぱいに溜まっちゃったよ。どうしよう。海の水だからね。追い炊きしても入れないよ。それにしてもこの部屋、どうしよう。乾くまでかなり時間がかかるよね」

 そう言って息子は笑ったが、嬉しそうに見える泣き顔だった。

 買い物に行く車の中で息子は饒舌だった。

「科学は誰がやっても同じ解答が得られなければ科学じゃないから、あれは科学じゃないんだよ。ましてやあれは僕の意思では出来ないからみんなで実験も、試すことも出来ない。だからあれはただの奇跡なんだ。右と左から同じ波や風が吹いて衝撃を消し合うのが肘に伝わるから僕、トポロジーを調べたんだよ」

「あぁ、ちょっと前にそんなこと言ってたね。お父さん、全然理解してなかったから。すっかり忘れてたよ」

「あの板は突然どこかの海や、どこかで吹いている風とつながるんだね。でも僕はいつかあの現象の原因を突き止めたいなぁ〜。たとえそれは出来なくても海の水は世界各地で完全に一緒じゃないみたいなんだ。太平洋でも採取する場所によって水の成分は少しだけ違うんだって。世界中の海の水を調べることが出来たらあの天板はどこの海とつながってるのか分かると思うんだ。今まであの穴から出てきた水は、全部同じ成分なんだよ。僕調べたんだ。だからあの板は、どこかの同じ海とつながってるんだよ」

 私たちは長かった年月を越えて、やっと本当の親子になれた。

                     完

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