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本能寺の変 1582 光秀の苦悩 4 30 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

光秀の苦悩 4 粛清の怖れ 

信長は、最後まで、信盛を赦さなかった。

 太田牛一は、二度繰り返している。
 「御折檻の条、御自筆にて」
 「此の如く、御自筆を以て遊ばし」
 信長は、激昂した。
 これまで、腹中に堪め込んでいたものが一気に噴き出した。
 
  此の如く、御自筆を以て遊ばし、
  佐久間右衛門父子かたへ、楠木長安・宮内卿法印・中野又兵衛、
  三人を以て、遠国へ退出すべき趣、仰せ出ださる。
 
  取る物も取り敢へず、高野山へ上(のぼ)られ侯。
 
  爰(ここ)にも叶ふべからざる旨(むね)、御諚に付いて、
  高野を立ち出で、

信盛は、逐電した。

 最早、見る影もなし。
 落ちぶれ果てた哀れな姿であった。

  紀伊州熊野の奥、足に任せて逐電なり。
 
  然る間、譜代の下人に見捨てられ、
  かちはだし(徒歩裸足)にて、己と草履(ぞうり)を取るばかりにて、
  見る目も哀れなる有様なり。
                          (『信長公記』)

信盛は、失意のうちに亡くなった。

 それから、ちょうど一年後。
 天正九年(1581)、八月。
 大和十津川にて、没す(奈良県吉野郡十津川村)。
 享年、五十五という。

これが、織田家重臣筆頭者の末路である。

 山中の温泉場にて。
 人知れず。
 息を引きとった。
 その心中や、如何に。

  十九日、
  一、佐久間、十津川の湯にて死ぬにつき、

    高野の宿坊の庫(くら)の物、請け取るべきの由、
    信長より仰せつけられ、
    上使、指し上らるゝのところ、
    悉(ことごと)く 以って討ち殺しおわんぬと云々、

    これにより、諸国の高野聖(ひじり)とらえらる、

    近日、手遣(てづか)ひのあるべきの由、沙汰に及ぶと云々、
    則ち、来たる廿三日、陣ふれ(触)これ在ると云々、
    高野滅亡、時刻到来か、
                   (「多聞院日記」八月十九日条)

多聞院英俊もまた、歴史の証人であった。

 奈良、興福寺多聞院の院主。
 「多聞院日記」の著者。
 当日記は、先々代・先代から、引き継がれたものという。
 大和に関する記述が多い。
 特に、英俊の代は、三好・松永・筒井・信長・光秀の時代と合致する
 ため、それらを知る上で、貴重かつ重要な史料である。


           ⇒ 次回へつづく 



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