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本能寺の変 1582 光秀と信長 1 57 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

光秀と信長 1 邂逅 

永禄十一年(1568)、春。

 本能寺の変の15年前。
 光秀が、歴史に登場するのはこの辺りからである。

光秀は、細川藤孝に仕えていた。

 後に、幕臣(足軽)になることを考えれば、藤孝の家臣というよりも、
 むしろ、食客・協力者とも言うべき存在だったのではないか。

フロイスの証言。

 「信長の治世の初期」とあるから、この当時のことである。
 なお、これは本能寺の変後に記述された。
 
   信長の宮廷に惟任日向守殿、別名十兵衛明智殿と称する人物がいた。
   

   彼はもとより高貴の出ではなく、信長の治世の初期には、
   公方様の邸の一貴人兵部太輔と称する人に奉仕していたのであるが、
                            (『日本史』)

光秀は、優れた能力の持主だった。

 フロイスは、そのことを次の様に表現している。

 信長は、イエズス会の庇護者。
 光秀は、その信長を殺害した男(天正十年六月二日)。
 その事があった。
 彼らは、光秀に対して悪感情をいだいていた。
 
  その才略、深慮、狡猾さにより、信長の寵愛を受けることとなり、
  主君とその恩恵を利することをわきまえていた。

光秀は、細川藤孝の「中間」だった。

 以下は、山崎の合戦(天正十年六月十三日)で、秀吉に敗れた光秀が、
 逃げる途中で一揆勢に討ち取られたことを記録したものである。
 この中に、これに関する記述がある。

多聞院英俊の証言。

 光秀は、まだ出世前。
 英俊は、その存在すら知らなかった。

  一、惟任日向守は、十二日勝龍寺より迯(逃)げて、山階(科)にて、
    一揆にたたき殺され了(おわんぬ)、

    首もむくろ(骸)も、京へ引き了と云々、
    浅猿(あさまし)〃〃、

    細川ノ兵部太夫が中間にてありしを、これ引き立て、
    中國の名誉に、信長、厚恩にて、これ召し遣はされ、
    大恩を忘れ、曲事(くせごと=謀叛)を致し、
    天命此(かく)の如し、

               (「多聞院日記」天正十年六月十七日条)


          ⇒ 次回へつづく 


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