見出し画像

本能寺の変 1582 信長と「敦盛」 8 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

信長と「敦盛」 

これが信長の生き様であった。

 信長は、幸若舞を好んだ。
 特に、「敦盛」のこの一節。

  敦盛を一番より外は、御舞ひ候はず候。

 心の奥に、深く刻み込んだ。
  
  人間五十年、
  下天の内をく(比)らぶれば、
  夢幻の如く也、
  一度生を得て、
  滅せぬ者の有るべきか、

                     (『信長公記』) 

信長は、己の人生と重ね合わせた。

 そして、激動の時代へ立ち向かった。
 織田家の存亡を賭けて。
 孤独だった。
 この様にして、自らを鼓舞したのだろう。
 その姿が目に浮かぶ。

信長は、「五十年」を強く意識していた。

 余程、気に入ったものと思う。
 『信長公記』には、二度出てくる。
 ともに首巻。
 一、「天沢長老物かたりの事」
 一、「今川義元討死の事」
 「五十」、「五十」と、つづく。
 信長は、これを大きな節目と考えた。
 すなわち、己の年齢として。
 なれど、一歩及ばず。
 立ち上る煙とともに、天空の彼方へ。
 戦国の世は、無情なり。
 
          ⇒ 次回へつづく

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?